今日も、幸い、晴れているので、散歩ついでに山田地区の方へ。

そこに「旧味野専売局山田出張所」の建物が残っているというので、行ってみました。

 

こちらが、その建物。

この正面入口は、西向きになります。

 

入口には、説明版があります。

 

 

文化庁の「登録有形文化財」の板も並んでいます。

 

この「専売局」とは、周辺で作られた塩を、一時的に、ここに集め、全国へと出荷をする施設だったそう。

明治41年の建築で、昭和13年に「専売局」は、廃止となりますが、その後、「山田村役場」、更に、玉野市山田支所として、昭和39年まで使用されていたそうです。

現在も、社会福祉施設などとして使われているそうです。

 

明治時代の専売庁舎の建物が残る、貴重なものだそうです。

当時の大蔵省建築部が関わった建物としても数少ない現存の建物だそうです。

 

こちら、建物を、北側から眺めたところ。右が、正面入口になります。

 

東側から、建物を眺める。

 

やや、向きを変えて。

 

こちらは、建物に隣接をする、公文書を保管する「文庫」だそうです。

専売局と文庫が、一緒に残っているのは、この山田地区のものと、赤穂にあるものだけだそう。

入口のドアや、窓は、鉄製で、建物は、レンガで作られています。

これは、火事への対処のため。

公文書が、厳重に、管理をされていたことが分かります。

 

現在では、御神輿の保管場所などとして使用されているそう。

 

こちら、説明版です。

 

文庫と建物を繋ぐ廊下です。

 

建物、南の裏手には、かつて、使われていた井戸もありました。

 

文庫の方から、建物を見る。

 

この専売局に隣接する汐入川の岸壁に、このような説明版が。

劣化をしていて読みづらいですが、かつては、ここが、塩の積み出し港だったそうです。

 

ここまで、船が入って来て、塩を積んでいたということ。

昔、この山田港は、塩の積み出し港として、かなり、賑わっていたそうです。

その面影は、全く、無いですね。

 

やや、東に歩く。

 

更に、東に向かって歩くと「塩竈神社」があります。

 

かつて、使われていたのだろう、古い石橋が。

 

塩竈神社の手前に、汐入川にかかる奇妙な構造物があります。

果たして、これは、何でしょう。

 

こちらが、その説明版。

この奇妙な構造物は「開閉橋」と言われるもの。

やはり、橋だったんですね。

 

説明版を読むと、背の高い帆などをつけた船が通る時には、船に乗った人が、この橋の中央部を、自分で上げて、船を通していたそうです。

現存するこの橋の他にも、二つ、同じものがあったそう。

なかなか、面白い。

この橋が作られたのは大正15年で、それ以前は、木造の橋だったそうです。

 

ここから、橋を歩いて渡っていたのでしょう。

 

反対側から、開閉橋を見る。

 

こちら、塩竈神社の入口の鳥居です。

「元治元年」の年号があります。

 

こちら、塩竈神社の説明版。

 

こちら、東野崎塩田の碑と、その説明版です。

 

こちら、「鐘楼跡」と、その説明版です。

この周辺の東野崎の塩田は、巨大なもので、4千5百人が、この塩田で仕事に従事していたそう。

その人たちに、時間を知らせるための鐘が、ここに設置されていたそうです。

 

こちら、拝殿になります。

 

さて、この東野崎の塩田を作ったのも、あの「塩田王」として有名な「野崎武左衛門」です。

 

野崎武左衛門は、文政12年(1829)、今の倉敷市児島で、約48ヘクタールの「元野崎浜」の塩田を作ります。

天保12年(1841)には、玉野市山田地区に、約74ヘクタール、文久3年(1863)には、胸上地区に、約20ヘクタールの塩田を作り、この二つの塩田を合わせて「東野崎浜」と呼びます。

 

塩田は、塩の製造方法の変化により、昭和46年には、無くなったようですね。

しかし、この旧味野専売局山田出張所の近くには、「ナイカイ塩業」という会社があり、今でも、この地域での塩作りは続いている。

社長は、野崎さんで、江戸時代から、継続して塩の製造を続けている会社としては、全国で唯一だということのようです。

 

かつて、倉敷市児島から、玉野市番田地区の辺りまで、海岸線には、広大な塩田が広がっていたんですよね。

やはり、時代の移り変わりにより、産業もまた、変わって行くというころですね。