鎌倉時代末期から、南北朝時代に活躍をした「楠木氏」について。

この本を読みました。

 

 

この本。

最新研究に基づいて、楠木正成、正行、正儀の三人と、楠木一族のついての話が、コンパクトにまとめられていて、なかなか、面白い。

しかし、歴史ファン、楠木氏ファンの人が読むには、あまりにも、コンパクト過ぎて、物足りない感じもあるでしょう。

そういう人たちには、同じ著者のこちらの本も、一緒に読むと良いでしょう。

 

 

 

 

さて、この本の中から、個人的に、興味深い話を、いくつか。

 

楠木氏が、拠点を置いて、支配をしていた「赤坂」「千早」のある地域は「東条」と呼ばれます。

室町幕府側では、楠木一族らのことを「東条凶徒」と表現しています。

 

さて、楠木氏は、いつから、この「東条」に拠点を置いて、支配を始めたのか。

それは、分からないということになるそうです。

 

そもそも、楠木氏は、どこから来たのか。

近年では、駿河国入江荘内の楠木村を本貫地とした、得宗被官、つまり、北条氏の家来だったのではないかという説が有名ですが、今では、この説には、反論もあり、確かではないということのよう。

そして、永仁3年(1295)に「河内楠木入道」という人物が、史料に登場するそうで、これ以前に、楠木氏が、東条に拠点を置いていたのは確実と考えられる。

 

この東条にある千早赤坂村には、発掘調査により、楠木氏の居館だったと思われる建物が確認をされているそうです。

そして、そこは、「楠木正成誕生の地」として、史跡にもなっている。

 

この楠木氏の居館は、台地の上にあり、四方を掘りに囲まれ、どうも、楠木正成が挙兵をした時に立てこもったとされる「赤坂城」の可能性が高いということのよう。

なぜなら、「太平記」に書かれた「赤坂城」の記述が、この楠木氏居館と一致するからということのようです。

楠木正成が、最初の挙兵で立てこもった赤坂城は、「太平記」では「方四町に足らぬ平城」と表現されているそうです。

これが、まさに、発掘調査で確認をされている楠木氏居館の大きさと一致する。

ちなみに、現在、「下赤坂城」と呼ばれる地には、城跡は確認できないそうで、「上赤坂城」の城跡は、どうも、当時、どう呼ばれていたか分からないということ。

 

そして、楠木正成が、幕府の大軍を翻弄した「千早城」ですが、この「千早城」もまた、「赤坂城」と、ほぼ、規模の変わらない小さな城だったそう。

「この城、東西は、谷深く切れて、人の上がるべき様もなし。南北は金剛山に続きて、しかも、峰絶えたり。されども、高さ二町ばかりにて、廻り一理に足らぬ小城」

と、「太平記」には記されているそう。

どうも、赤坂城、千早城と聞くと、戦国時代の山城のようなものを想像しますが、当時の城は、かなり、印象が違っていたようです。

 

元弘元年(1331)9月11日、楠木正成は、赤坂城で挙兵します。

しかし、9月28日、後醍醐天皇が籠る笠置山が、幕府軍によって陥落。

10月21日、赤坂城も陥落し、楠木正成は、一時、行方をくらまします。

 

正慶元年(1332)12月、楠木正成が、再び、紀伊国で挙兵。

赤坂城(楠木氏居館)を奪還し、周辺値域で、幕府軍を破り、支配領域を拡大する。

正慶2年(1333)1月22日、千早赤坂に帰還した楠木正成は、千早城に入る。

この時、赤坂城を任されたのが「平野将監入道」という人物。

 

実は、当時の畿内の武士たちは、京都で、公家や朝廷にも出仕をしていたそう。

恐らく、楠木正成も同様で、正成もまた、京都で、畿内の武士たちとも交流を深めたと考えられる。

その中に、この「平野将監入道」も居た訳ですが、この「平野将監入道」は、「関東申次」(朝廷側の窓口として幕府と連絡を取る役職)にあった西園寺公望に仕えていたそう。

そして、この「平野将監入道」は、後醍醐天皇の側近で、笠置山にも、一緒に立てこもった「峯僧正俊雅」という人物と交流があったそうです。

もしかすると、楠木正成と後醍醐天皇をつないだ人物というこっとになるのかも知れない。

 

さて、楠木正行については、記述は、少ない。

 

これは、楠木正行の活動期間が短いこと、そして、楠木正行に関する史料が、ほぼ、残っていないということなので、仕方が無い。

 

そして、やはり、楠木正儀に関しては、最も、分量が多く、充実をしている。

 

これは、楠木正儀の活動期間が、兄、正行はもちろん、父、正成に比べても、圧倒的に長く、史料も、豊富に残っているため。

そして、吉野の南朝にとっても、楠木正儀は、非常に、重い立場を占めていた。

 

しかし、楠木正儀は、一時、南朝を裏切り、北朝側についたことから、後世の評判は、かなり悪い。

そして、意外なことに、この「楠木正儀」という人物については、江戸時代の頃、まだ、その経歴が、あまり知られていなくて、人物像も、曖昧だったようですね。

それが、楠木正儀の低評価に繋がることになる。

 

しかし、この楠木正儀は、とても、興味深い人物です。

南朝の武将として、室町幕府との戦いの最前線に立ち続けながらも、常に、南朝と幕府との平和的な和睦を求め続けた人物。

その苦悩は、かなり大きかったのではないでしょうかね。

ちなみに、楠木正儀が、一時、南朝を離れたのは、後村上天皇が亡くなり、対室町幕府強硬派の長慶天皇が、南朝のトップになったことで、和平派の正儀が、南朝の中で孤立してしまったためと考えられます。

しかし、その後、和平派の後亀山天皇が南朝で即位をし、室町幕府の中で、正儀の理解者だった細川頼之が失脚をしたことで、今度は、幕府の中で孤立をした正儀は、幕府を離れて、南朝に復帰。

南朝に戻った正儀は、南朝の実質上の総大将であると同時に、公卿にも列することになります。

つまり、もはや、楠木正儀は、南朝を政治、軍事で支える中心人物になったということ。

 

そして、南北朝は、合一に向かいます。

その後、楠木正儀が、どうなったのか。

史料には残っていないようで、いつ、どこで、亡くなったのかも分からないよう。

 

また、楠木正儀の子孫が、どうなったのかも、よく分からないようです。

 

さて、南北朝の合一の後も、北朝との合意が守られなかったため、南朝の遺臣と呼べる人たちが、度々、幕府に対して蜂起します。

それが、「後南朝」と呼ばれるもの。

その中で、楠木氏の関わったものも、いくつか見られるよう。

 

応永22年(1415)7月、「楠木一類」が、河内国で挙兵。

この挙兵には、大和国の悪党なども参加し、広範囲に広がりますが、河内国守護、畠山満家によって鎮圧される。

 

永享元年(1429)9月18日、南都で、「楠木光正」という人物が、将軍、足利義教の暗殺を計画したということで捕縛される。

その後、楠木光正は、京都で斬首され、首を晒される。

 

永享9年(1473)8月3日、「楠木兄弟」が、河内国で挙兵。

守口城を奪取し、籠城するが、討ち取られることに。

 

嘉吉3年(1443)2月、「楠木某」が、反逆を企てているという噂が流れる。

同年9月、「禁闕の変」勃発。

 

文安元年(1444)1月、「楠木某」が、河内国で謀反。

 

長禄4年(1460)3月、「南朝将軍の孫、楠木某」の謀反の計画が発覚し、捕らえられる。京都で、一味と共に処刑され、首を晒される。

 

そして、戦国時代、三好長慶の重臣、松永久秀に仕えた、備前国出身の「大饗正虎」という人物が、楠木氏の子孫を称し、久秀に、「楠木」姓への復帰と、楠木一族の「朝敵」からの斜面を望んでいることを申し出たそう。

そして、松永久秀は、正親町天皇に、それを伝え、楠木正成は、正式に「朝敵」から斜面され、大饗正虎は、「楠木」を名乗ることになったそうです。

 

さて、以前にも書きましたが、この楠木正成、正行、正儀の三代を「大河ドラマ」にすれば、面白いのではないかと思うのですが。

なかなか、無理でしょうかね。