佐々木小次郎と言えば、宮本武蔵と、巌流島で決闘をし、敗れたことで有名です。

この「佐々木小次郎」を主人公にした小説があります。

 

 

 

昔、この本を図書館で見かけ「佐々木小次郎を主人公にした時代小説があるのか」と思ったのですが、気になりながらも、読むことは無かった。

面白いのでしょうかね。

 

さて、この「佐々木小次郎」について。

昔、いくつかの本を読んだ記憶と、ネットの情報から、紹介をします。

 

そもそも、佐々木小次郎は、何時、どこで生まれたのか、不明だということ。

そのため、巌流島での決闘の時には、かなりの高齢だったのではないかという説もあるようですね。

ちなみに、吉川英治の小説「宮本武蔵」では、武蔵と小次郎は、同年齢だったはず。

 

ちなみに、この「佐々木」という名字も、確かではないようですね。

宮本武蔵の養子である宮本伊織が、養父、宮本武蔵を顕彰する碑文(小倉碑文)を残していますが、そこには「岩流」としか書かれていないようです。

また、佐々木小次郎が、兵法指南役だったと言われる、豊前国小倉藩で、門司城代だった沼田延元の家人の記した「沼田家記」によれば、「小次郎という岩流の遣い手」というふうに書かれているということ。

つまり、どちらも「佐々木」という名字は、出て来ない。

 

この「佐々木小次郎」という名前が、最初に登場するのは、1776年に書かれた「二天記」だそうで、本文の中には「岩流小次郎」と書かれ、その注釈として「佐々木小次郎」と書かれているそう。

ちなみに、1737年、「敵討巌流島」という狂言が上演されたそうで、その中に「佐々木巌流」という人物が登場するそう。

恐らく、これが、「佐々木」という名字の最初で、「二天記」もまた、ここから取ったのだろうと想像される。

 

佐々木小次郎は、「中条流」という剣術を学んだと言われますが、これも、定かではない。

この「中条流」は、小太刀を使うことで有名だそうですが、佐々木小次郎は、時代劇などで「物干し竿」と言われる、長大な刀を使うのが特徴となっている。

小倉碑文では、「三尺の白刃」を使って、武蔵と戦ったと書かれているそう。

ちなみに、三尺とは、今の90センチ。

普通の刀が、どれくらいの長さだったのか。

平均は、二尺七寸で、これは、今の70センチだそう。

佐々木小次郎が、通常よりも長い刀を使っていたのは、事実のようです。

 

なぜ、佐々木小次郎は、宮本武蔵と、巌流島で戦うことになったのでしょう。

ネットで、少し、調べてみても、その理由らしきものは出て来ませんでした。

恐らく、武蔵としては、剣客として名を挙げるのが目的で、その相手として佐々木小次郎を選んだということなのでしょう。

しかし、なぜ、佐々木小次郎が、武蔵との決闘に応じたのか。

その点は、疑問がある。

 

実は、どうも、この「巌流島の決闘」自体が、あったのかどうか、疑問があるという話もあるようですね。

 

理由としては、宮本武蔵の書いた「五輪書」に、この「巌流島の決闘」の話が出て来ないということ。

そして、当時、「巌流島」は「船島」と呼ばれ、この「船島」は、長府藩の領地だった。

この時の長府藩主、毛利秀元の経歴を記した「毛利秀元記」に、この「巌流島の決闘」の話が出て来ない。

 

さて、史実は、どうだったのか。

 

この「巌流島」の「巌流」とは、佐々木小次郎が生み出した剣術の流派「岩流(巌流)」から取ったもの。

宮本武蔵との決闘が、その後、世間で評判となり、その現場となった「船島」が、いつしか「巌流島」と呼ばれることになったのでしょう。

 

この佐々木小次郎の流派「岩流」は、江戸時代初期には、いくつか、残っていたようですが、その後、廃れてしまったよう。

もし、この「岩流」が、その後も、剣術流派として残っていれば、その創始者である佐々木小次郎のことも、多く史料に残されていたことでしょう。

その点は、残念です。