今日も、良い天気。
倉敷郷内地区尾原の「旧由加街道」を、森池から、旧郷内小学校分校まで、歩いてみました。
旧由加街道を、しばらく歩くと、見えて来たのが「羽口の宝篋印塔」と呼ばれるもの。
ネットで調べると、この地域で栄えた片山一族の先祖が建てたと伝わるそう。
この宝篋印塔の右隣には「寛政3年」(1791)の年号がある地蔵菩薩。
左隣には「正徳6年」(1716)の年号と「南無阿弥陀仏百万遍」と書かれた石塔が。
この「宝篋印塔」は、「五輪塔」と同じく、墓石、供養塔として作られたものだそうです。
五輪塔は、僧俗を問わず、様々な階層の人が作ったのに比べて、装飾性の強い宝篋印塔には、貴顕の間で、主に、用いられる傾向があったそうです。
こちら、近くの田んぼの風景。
田植えが、終わっていますね。
旧由加街道を、更に、歩くと、細い道を入ったところに、お地蔵さんが見えたので、近づいてみる。
かなり古いお地蔵さんと、隣には「南無阿弥陀仏」と書かれた、古い石柱が。
さて、更に、歩くと、このようなものが。
「三余塾(硯池小)跡地」と書かれています。
この、細い道を入ったところにあったのでしょうか。
この「三余塾」は、恐らく、明治最初の頃の「私塾」で、その後、「硯池小学校」となり、今日の目的地の「郷内小学校分校」になったのでしょう。
こちら、綺麗な風景です。
更に、歩くと、少し、高い場所に、常夜灯が。
そして、「尾原公民館」がありました。
正面入口にある掲示板に「尾原・蛍の里」と書かれています。
どこにあるのでしょう。
更に、歩くと、道の別れたところに、道しるべの石柱がありました。
「右・田の口・由加旧道」
「左・迫川・由加」
と、書かれています。
こちら、裏面。
「すぐ彦崎」と書かれています。
どういう意味なのでしょう。
彦崎までは、かなり遠いはずですが。
旧郷内小学校分校に到着。
今は、廃校になっているはず。
昔は、この辺りにも、多くの子供が居たのでしょう。
ここから、引き返すことに。
由加山まで、4.4キロという看板が。
田んぼの上には、トンボが飛んでいました。
あと、蝶も。
田んぼに、水を引く場所。
やはり、水の流れる音は、良いですね。
田んぼの中に、苗が、残されています。
もう、田植えは終わっているようですが、どうするのでしょう。
ついでに、由加神社の参道を、散歩。
こちらは、「寛政8年」の年号がある狛犬です。
この「京都近江屋」は、坂本龍馬が暗殺された近江屋でしょうかね。
由加山の山道には、寄進者の名前が、多く記されていますが、やはり、四国、中国の西国が多く、京都の地名があるのは、この近江屋だけのようです。
また、上の写真の狛犬の後ろにある大きな石灯籠には「大坂」の「福寿講」と書かれていますが、この「講」とは、様々な「集まり」を指す言葉。
みんなで、長寿と、幸福を願った集まりだったのでしょうかね。