この本。

旧幕府脱走兵たちの行動を追ったもの。

 

 

しかし、個人的には、旧幕府脱走兵の行動を追うなら「土方歳三」ではなく「大鳥圭介」とするべきではないかと思うのですが、なぜ、「土方歳三」なのか。

 

一つは、やはり、人気と知名度の差ではないでしょうかね。

「大鳥圭介」をタイトルに持って来るよりも、当然、「土方歳三」の方が、売り上げが増えると考えられる。

 

一つは、「大鳥圭介」に対する評価の低さと、「土方歳三」に対する評価の高さ。

これは、歴史の専門家の人たちにとっても同様のようで、この本の著者の大鳥圭介に対する評価も、かなり低い。

 

さて、土方歳三と戊辰戦争について。

 

近藤勇の率いる「鎮撫隊」が、甲州勝沼の戦いで、新政府軍に敗れた後、新選組は内部分裂を起し、長年、行動を共にしていた、永倉新八、原田左之助らが、離脱。

近藤勇、土方歳三は、新たに、隊士を募集して、新選組の体制を立て直し、慶応4年4月、下総国流山に集結し、新政府軍との戦いに備えます。

しかし、それから間もなく、流山の新選組の一隊は、新政府軍に包囲され、近藤勇は、新政府軍に投降。

この時、近藤勇は「大久保大和」という変名を使っていましたが、見破られ、4月25日、板橋の刑場で、処刑される。

 

さて、その後、土方歳三は、どうしたのか。

 

近藤が投降した後、土方は、江戸に向かい、勝海舟に、近藤助命の直談判をしている。しかし、結果は、上手く行くはずもない。

そして、4月11日、江戸城が、無血開城される。

土方歳三らは、鴻之台に集結していた、他の、旧幕府軍の脱走兵らと合流し、行動を共にすることになる。

この時、約2000人の脱走兵の総督に、大鳥圭介、参謀に、土方歳三が就任することに決まったと言われることもあるようですが、これは、間違いのようです。

 

全軍の都督に、大鳥圭介が就任したことは、間違いない。

大鳥軍は、日光を目指して、北上を開始。

4月17日、「小山の戦い」で、大鳥軍は、新政府軍を打ち破りますが、その後、大鳥圭介は、軍を二つに分け、更に、北上。

その時、一隊を、大鳥圭介が。もう一隊を、秋月登之助が、指揮を取ることになります。

土方歳三は、この、秋月登之助が指揮を取る一隊の参謀だったようです。

 

そして、4月19日、この秋月、土方の一隊が、宇都宮城を攻撃し、奪取します。

どうも、この秋月、土方の一隊が、宇都宮城を攻撃、奪取したのは、大鳥圭介にとっては、想定外のことだったようです。

宇都宮方面に、火の手が上がるのを確認した大鳥は、秋月隊が、宇都宮城を攻撃したと知って、急遽、軍を、宇都宮方面に向け、秋月隊と合流する。

そして、新政府軍が退去した後の、宇都宮城に入ることになる。

 

この「宇都宮城奪取」は、土方歳三の戦果の一つとして挙げられることが多い。

つまり、土方歳三が、指揮官として、如何に、優れていたかというエピソードの一つ。

しかし、この「宇都宮城の奪取」は、大鳥軍の戦略としては、失敗です。

 

大鳥圭介が、この、秋月隊による「宇都宮城の奪取」を、どう判断していたのか。

その評価を、大鳥自身が語っていないので、分からない。

しかし、この宇都宮城は、一応、城なのですが「攻めやすく、守りづらい」と言われている城。

そして、この宇都宮城を拠点にした大鳥軍は、当然のことながら、すぐに、新政府軍の猛攻を受けることになる。

そして、多くの、武器、弾薬、人員を、一気に損耗し、しかも、兵士の士気が、大きく低下。

宇都宮城を放棄し、日光に向かう大鳥軍からは、脱走者が、続出する事態になり、一時、統制が取れなくなってしまったようです。

しかも、土方歳三自身、脚を負傷し、大鳥軍を離脱。戦傷者として、会津に運ばれることになる。

そして、会津で、約三ヶ月の間、療養をしていたそう。

 

さて、会津で、土方歳三が、何をしていたのか。

 

どうも、実戦の指揮を取り、新政府軍と戦ったという様子は見えない。

この頃、新選組を率いていたのは、斉藤一です。この頃は、山口二郎と名乗っていたよう。

母成峠を突破した新政府軍が、会津城下に入り、戦闘が激しくなると、大鳥軍ら、旧幕府の脱走兵たちは、会津藩から支援を受けられなくなり、仙台に向かうことになります。

土方歳三も、それと、行動を共にする。

 

この頃、旧幕府海軍の艦隊を率いていた榎本武揚が仙台に来ていましたが、この榎本が「土方歳三を、列藩同盟の総司令官にしてはどうか」と提言をしたという逸話があるようですね。

これは、果たして、事実なのでしょうか。

個人的には、どうも信じがたいところ。

 

しかし、土方歳三が、旧幕府脱走兵たちの間では、かなり、評価の高い人物であったことは確かなよう。

やはり、新選組の副長としての、京都での活躍が、評価をされたということなのでしょうか。

 

仙台で、旧幕府脱走兵たちを収用した榎本艦隊は、蝦夷地に向かうことになる。

そして、蝦夷地の「鷲の木」に、榎本軍は、上陸することになる訳ですが、その時、榎本武揚は、軍を、二つに分け、一隊を、大鳥圭介、一隊を、土方歳三が率いることになる。

恐らく、土方歳三は、「洋式陸軍」についての専門的な勉強をした訳ではないでしょう。

当然、「歩兵」の用兵に関しての、基本的な勉強もした訳でもないと想像します。

なぜ、そのような、恐らく、専門知識の無い、土方歳三が、大鳥圭介と並ぶ指揮官に任命されたのか。

考えられるのは、「人望」と「統率力」が、評価をされたといったところですかね。

 

恐らく、土方は、洋式陸軍、歩兵の用兵の知識を、榎本軍に同行していたフランス人士官たちから、レクチャーを受けたりしたのではないかと想像をするところ。

飲み込みは、相当に、早かったのではないでしょうかね。

 

そして、蝦夷地を占領した榎本軍は、箱館の五稜郭で、一応、政府としての制度を整える訳ですが、そこで、「陸軍奉行」に選ばれたのは、大鳥圭介、「陸軍奉行並」に選ばれたのは、土方歳三。

 

やはり、大鳥圭介への評価も、当時は、低いものではなかった。

それは、戊辰戦争での、大鳥圭介の立場を見れば、分かること。

しかも、それは、土方歳三よりも上。

大鳥圭介ファンからすれば、今、著しく、大鳥圭介への評価が低いのは、不満なところ。

 

さて、榎本武揚の箱館政府は、新政府軍の攻撃を受けることになる。

 

蝦夷地に上陸をした新政府軍を、土方歳三は「二股口」で、迎え撃つことになる。

大鳥圭介の軍が、木古内、矢不来と、新政府軍に突破されたのに対して、土方歳三の軍は、二股口で、新政府軍を相手に善戦。

恐らく、これが、大鳥圭介、土方歳三の軍事指揮官としての力量の評価の差ということになっているのでしょうが、この時の、両軍の戦闘を、指揮官の力量として比較をするには、かなり無理がある。

 

土方軍が、山道に胸壁を築き、下から登ってくる新政府軍を、上から射撃するという、圧倒的に有利な立場で、新政府軍を迎え撃ったのに対して、大鳥軍は、艦砲射撃をまともに受ける、海沿いの戦線という、圧倒的に不利な状況で戦闘をしていた。

土方軍が、有利に戦いを進め、大鳥軍が、新政府軍に敗れたのは、当然の結果です。

 

そして、土方歳三は、箱館戦争の最中、明治2年5月11日、一本木関門で戦闘指揮をしている時に、戦死をすることになる。

 

箱館政府の幹部の中で、戦死をしたのは、土方歳三、一人だけ。

恐らく、土方歳三には、生き残って、新政府軍に降伏するつもりは無かったのではないでしょうかね。