鳥羽伏見の戦いに敗れ、徳川慶喜が大坂城から江戸に逃げ帰ったことで、幕府軍は、崩壊。

取り残された幕府軍は、それぞれに、江戸を目指して、下って行く訳ですが、その中に、当然、新選組の面々も居た。

新選組は、見廻組と同じく、京都を去ったことで、その存在意義を失った訳ですが、その後、新選組、近藤勇は、何をしようとしたのか。

 

近藤勇は、江戸に戻って間もなく、徳川慶喜に対して、甲府城支配を一任してもらうように申し出たそうですね。

甲斐国は、徳川幕府の直轄地だった場所。

永倉新八の話によれば、近藤勇は、この甲府城を支配し、そこに、徳川慶喜を迎え入れようという構想をしていたそう。

そして、慶応4年2月28日、近藤勇に「甲府鎮撫」の命令が下ることになる。

 

 

当時、徳川軍を統括していたのは、「軍事取扱」の役にあった、勝海舟。

上の本によると、王政復古により、徳川幕府の支配が完全に終わった後、勝海舟の役目の一つは、幕府直轄領だった地域の治安維持だったそう。

近藤勇の率いる部隊が、甲州に派遣されたのも、その一環だったよう。

 

この頃、すでに、新政府軍は、京都を出発していた。

東海道軍を、実質的に率いるのは、西郷隆盛。

そして、東山道軍を率いるのは、板垣退助。

 

上の本によると、近藤勇は、「官軍と戦闘をしてはならない」という指示を受けていたようですね。

第一の目的は、甲州の治安維持であり、官軍と戦闘をするということは、あまり、想定されていなかったということのよう。

もっとも、近藤勇の思惑は、また、別でしょう。

それは、信州方面の直轄領の治安維持を命じられていた古屋作左衛門が率いる一隊と、状況は同じと言える。

 

ちなみに、「甲陽鎮撫隊」という言葉が、初めて登場するのは、明治32年に発行された本が最初だそうですね。

同時代史料からは、近藤勇らが「鎮撫隊」と名乗っていたことは分かりますが、「甲陽」が、どこから来たのかは、不明だそう。

 

3月1日、近藤勇の率いる「鎮撫隊」が、江戸を出発。

 

さて、この近藤勇の率いる鎮撫隊の行軍ですが、子母沢寛の「新選組始末記」には、近藤らの一行は、生まれ故郷である地元を通り、その、行く、先々で歓待を受け、行軍が、大きく遅れ、そのために、先に、官軍に甲州を奪われてしまったと書かれていますが、これもまた、子母沢寛の創ったフィクションのようです。

実際には、食事をする間も惜しんで、近藤らの鎮撫隊は、甲州に向かったよう。

しかし、板垣退助の率いる官軍が、先に、甲州に入り、甲府城を抑えてしまった。

 

上の本によると、この「甲州」は、本来は、西郷隆盛の東海道軍の管轄だったようですね。

しかし、東山道軍の板垣退助は、一刻も早く、江戸に入ろうと、一部の部隊を率いて、近道である甲州街道を進み、甲府城に入ったよう。

つまり、近藤勇は、思いがけず、官軍と戦闘をすることになったという状況のようです。

 

ちなみに、この「板垣退助」は、元々、「乾退助」という名前だった。

元々、名字を「乾」、本姓を「板垣」と言っていたようですが、この甲州に向けて進軍をするにあたり、「板垣」という名字に変えたそう。

これは、当然、武田信玄の重臣だった「板垣氏」を意識してのこと。

つまり、自分は「板垣信方」の子孫であるということを宣伝し、人心を得るため。

 

この近藤勇の「鎮撫隊」ですが、ウィキペディアによると、新選組が、約70人。若干の、会津、彦根の藩士。そして、弾内記(弾左衛門)の配下によって編成された銃隊、約100人で構成された、混成軍だったようです。

また、新選組の後援者だった日野の佐藤彦五郎も「春日隊」を組織して、行動を共にしていた。

 

近藤勇の鎮撫隊と、板垣退助の新政府軍は、3月6日、甲州勝沼で戦闘に及ぶ訳ですが、鎮撫隊は、あっけなく、敗北する。

 

この直後、新選組は、意見の対立から、長年、行動を共にしていた、永倉新八、原田左之助らが、近藤勇の元を離れることになる。

この時、近藤勇は、永倉、原田らに、自分の家臣になることを要求したということのようですが、一体、近藤は、何を考えていたのでしょう。

疑問の残るところでは、あります。