6月5日は、「池田屋事件」の日、と、勝手に、呼んでいます。

元治元年(1864)6月5日、新選組が、京都三条小橋の旅館「池田屋」に集まっていた尊攘派の志士たちを襲い、吉田稔麿、宮部鼎蔵らが殺害された事件。

 

さて、新選組隊士の永倉新八が、回想録を残しています。

それが「新選組顛末記」というもの。

この「新選組顛末記」が、どのような経緯で書かれたのか、ネットで調べてみると、1913年に「小樽新聞」に「新選組・永倉新八」というタイトルで連載をされたもののようですね。

小樽新聞の記者が、永倉新八から聞き取りをして、書いたものだそう。

 

 

僕が、この本を読んだのは、もう30年くらい前の話で、内容は、あまり、よく覚えていない。

永倉新八は、新選組の最重要幹部の一人。

新選組の内部事情に、最も、詳しい人物。

 

しかし、本人の言っていることだからといって、この本に書かれていることが、全て、真実であるとは限らない。

永倉新八が亡くなったのは、大正4年(1915)で、77歳だったそう。

つまり、この「新選組顛末記」が、新聞で発表されたのは、無くなる2年前、75歳のこと。

当時、永倉新八は、相当な高齢で、記憶違いもあれば、もしかすると、面白く、作り話をした部分もあるのかも知れない。

 

もう一人、新選組の幹部だった島田魁という隊士が、日記を残しているそうですね。

この「島田魁日記」は、個人的に、未読。

しかし、「日記」という性格上、かなり、信頼を置けるものかも知れない。

どのような内容なのか、興味はありますが、これまで、手にする機会は無かった。

 

 

新選組が、一時、屯所を置いていた西本願寺の侍臣だった西村兼文という人物が、「壬生浪士始末記」という新選組に関する文章を残しています。

この「壬生浪士始末記」が、全文掲載された歴史雑誌を所有していましたが、とても読みづらく、途中で、挫折をした記憶があります。

これもまた、30年くらい前の話。

 

さて、「池田屋事件」について。

 

子母沢寛の「新選組始末記」に書かれた「池田屋事件」に関する経緯が、ほぼ、フィクションであるということは、今では、定説でしょう。

そして、未だに、色々と、謎、というか、不可解な部分が多いのは、やはり、当事者の言葉が、信用できないからでしょう。

 

永倉新八の「新選組顛末記」の中の「池田屋事件」に関する部分にも、疑義がある。

と、言うことになっているのではないでしょうか。

 

以前、NHKの「歴史探偵」で、当日、池田屋に居た、新選組に襲われた側の浪士の一人、「大沢逸平」という人物の書き残した手記が、紹介されていました。

この、大沢逸平の手記を元に、ドラマ仕立てで、池田屋事件が再現されていましたが、その内容は、近藤勇が書き残した池田屋事件に関する手紙とは、かなり様相が異なる。

 

実際に、現場に居た当事者の書き残したものが、内容が一致しないとなれば、どれを信用すれば良いのか。

それは、やはり、歴史研究者の仕事、と、言うことになるのでしょう。

 

さて、「池田屋事件」に関して、記憶に残っていることを、一つ。

 

それは、沖田総司に関するもの。

 

この、沖田総司が、池田屋事件の最中、肺結核の悪化による、血を吐いて昏倒。

戦線を離脱したのは、有名な話で、時代劇の中でも、必ず、登場する場面。

 

しかし、本当に、この時、沖田総司は、「肺結核による喀血」で、倒れたのか。

疑問があると書かれた本を読んだ記憶があります。

 

恐らく、この時、沖田総司が、肺結核による喀血を起したのだとしたら、すぐに、病気療養に入らなければならないはず。

しかし、この池田屋事件の後も、沖田総司は、普通に、新選組隊士として、仕事を続けている。

恐らく、池田屋で、沖田総司が倒れたのは事実なのでしょうが、それは、肺結核が原因ではなく、他の理由だったのではないかということ。

例えば、別の病気による体調不良、または、当日は、今の暦では7月8日になるそうで、暑さにやられたか。つまり、今で言うところの熱中症のようなもの。

そして、その場合、沖田総司が、肺結核を発症したのは、慶応2年(1866)頃ではないかと推測をしていました。

つまり、池田屋事件から、二年後。

 

実は、この「沖田総司が池田屋事件の時に、肺結核の悪化で、血を吐いて倒れた」というのは、「新選組顛末記」に書かれているそうです。

永倉新八の話したことなので、疑うことなく、受け入れられているよう。

しかし、これは、後に沖田総司が、肺結核を発症したことから、「池田屋で倒れたのも、その肺結核が原因だったのだろう」と、永倉新八は、思ったのではないかと、その本の著者は、推測をしていました。

個人的には、納得の出来るところです。