今日は、快晴。

散歩がてら「本太城跡」に行ってみました。

 

ウィキペディアによると、本太城の築城時期は、不明。

文永14年(1482)には、源政縄、政吉の兄弟が、築城したという記録があるよう。

城は、本太岬の先端に位置し、北部には、本太港を備える。

この辺りの海上交通の要衝だったようで、度々、この本太城を巡る争奪戦が行われている。

 

室町時代、備前国児島は、阿波、讃岐の守護である細川氏の領地でした。

しかし、戦国時代、毛利氏の支援を受けた備中国松山城の三村氏が、児島を抑えることになる。

 

永禄11年(1568)、讃岐国の香西氏が、本太城を守備する村上氏を攻撃。

城を守備していた島吉利が、香西又五郎を討ち取る。

 

元亀2年(1571)、本太城を支配していた村上武吉が、毛利氏を離れ、備前国の浦上宗景を手を結ぶ。

 

同年4月、小早川隆景が、本太城を攻撃し、陥落させる。

 

同年5月、三好氏の重臣、篠原長房が、阿波、讃岐の軍勢と共に、児島に上陸。

この時、児島日比の四宮氏と、讃岐の香西元載は、篠原長房に協力し、本太城を攻撃するが、香西元載は、本太城攻めの最中に、戦死。

 

同年9月、浦上氏、宇喜多氏の軍勢が、毛利氏、三村氏との戦いの中で、本太城を奪い、宇喜多家臣の能勢頼吉が、本太城に入る。

 

その後、本太城は、天正8年(1580)まで、能勢氏が支配していたようですが、廃城時期は、不明ということ。

 

城跡があるはずの山に向かって、住宅地を歩くと、このような石柱を発見。

この道から、山に登ってみます。

 

整備された山道を登ると、このような石垣が、少しだけ、ありました。

城があった当時のものなのでしょうか。

 

ここが、山の、最も、高い場所です。

何も、掲示がないので分かりませんが、普通なら、ここが、本丸跡ということになるのかも。

しかし、ここは、岬に突き出しだ場所ではなく、もしかすると、この山頂に城があったのではなく、突き出した岬の方に城があったのかも知れない。

しかし、その岬の方に行く道は、見つけることが出来ませんでした。

ちなみに、今は、周囲が埋めたてられ、岬にはなっていない。

 

 

 

山頂から、少し、南に下ると、不自然に削られた跡の残る、なだらかな平面があります。

もしかすると、郭の跡なのかも。

 

整備された遊歩道に沿って、山を南に下りる。

 

遊歩道を南に下り、元来た、北方面に戻る。

こちらは、東から見た本太城跡のある小山。

 

同じく。

 

やはり、水島は、工業地帯ですね。

大きな工場が、いくつも。

ちなみに、僕は、水島に来るのは初めてです。

近くに住んでいながら、これまで、全く、来る機会が無かった。

 

山に沿って、北に歩いていると、住宅地の中に、もう一つ、別の石柱が。

 

そして、こちらが、その石柱のある場所から、山頂近くにある天神宮に登る道です。

 

こちらは、少し、離れた場所にある公園と水路。

 

さて、僕が、この「本太城」に興味を持ったのは「篠原長房」という人物を知ったのが、きっかけです。

この「篠原長房」は、四国の阿波、讃岐を支配した三好家の重臣です。

 

三好氏は、細川氏の家宰という立場にありましたが、戦国時代、三好長慶の登場で、次第に、その権力は、主家である細川氏を凌駕するようになる。

そして、三好長慶は、拠点を四国の阿波国から、摂津国に移し、四国の阿波国、讃岐国の支配を、弟の三好実休(義賢)に任せます。

 

篠原長房は、この三好実休の重臣です。

しかし、永禄5年(1562)、実休は、畿内で、畠山高政や紀州根来衆と戦った「久米山の戦い」で戦死します。

阿波国三好家の後を継いだのは、嫡男の三好長治でしたが、まだ八歳と幼く、重臣筆頭として、篠原長房が、三好長治の補佐をすることになります。

 

篠原長房は、阿波国、讃岐国の内政と共に、四国の大軍を率いて、度々、畿内に上陸し、戦闘を続けることになります。

畿内での篠原長房の立場は、いわゆる「三好三人衆」の、三好長逸、三好康長、岩成友通の三人と肩を並べるくらい高かったよう。

軍事に、政治に、優れた手腕を持っていたそうです。

 

しかし、この篠原長房は、主君である三好長治によって、元亀4年(1573)、居城の上桜城を攻められ、戦死することになる。

あまりにも優れた家臣は、主君から疎まれることになる。

篠原長房の場合は、その典型でしょう。

 

 

篠原長房をテーマにした本は、この本くらいでしょう。

なかなか、読みづらく、分かりづらい印象ですが、面白い。

 

さて、この篠原長房が行った備前国児島への攻撃について、この本から。

 

元亀2年(1517)5月、篠原長房は、阿波、讃岐の軍勢と共に、備前国児島に上陸作戦を展開します。

その、きっかけは、何だったのか。

 

当時、中国地方で勢力を持っていたのが、毛利氏で、その毛利氏の勢力拡大に、備前国の浦上氏、宇喜多氏が、対抗していました。

畿内では、織田信長が足利義昭を擁して上洛し、第15代の室町幕府将軍となります。

足利義昭は、畿内で活動をする三好氏の影響を削ぐため、毛利氏に、四国への出兵を、度々、依頼していたようです。

一方、毛利氏の東への侵出を警戒していた備前国の浦上氏、宇喜多氏は、逆に、三好氏と協力し、毛利氏に対抗しようと考えることになる。

 

室町時代、備前国児島は、細川家の支配下にあり、そこから、備前国、備中国にも、影響力を及ばしていたよう。

そして、その影響を、三好氏も受け継ぐことになる。

阿波国三好氏の被官だった高畠氏が、この児島に渡り、小串城、番田城、胸上城などを支配していた記録が残っているそう。

しかし、この備前国児島は、三好氏の手を離れ、西から勢力を拡大して来た毛利氏、三村氏の支配下に入る。

 

そして、本太城を支配したのが、毛利氏の傘下にあった村上水軍の村上武吉。

島越前守が、城番として、本太城に入る。

元亀2年(1572)1月、毛利軍が、備前国への侵攻を開始。

この頃、篠原長房の嫡男、長重が、讃岐国宇多津に入り、浦上氏と手を組み、備前国児島への侵攻の準備をしていたと考えられる。

 

実は、この頃、村上武吉は、表面上は、毛利氏に従いながら、豊後国大友氏や、三好氏と内通していたそう。

それを察知していた毛利氏は、警戒を強めている。

 

小早川隆景は、毛利水軍の乃美宗勝に警戒を指示。

更に、阿波、讃岐から三好氏の軍勢が児島に来襲することを予想し、本太城に敵軍が来襲すれば、備後衆、水軍と共に、自身か援軍に行くという書状を「信直」という人物に宛てて送っている。

 

5月、ついに、備前国児島日比の四宮隠岐守の先導で、讃岐国から、篠原長房の率いる軍勢が、児島に上陸。

上陸地点は、日比、渋川、下津井の三カ所。

香西元載の軍勢は、下津井に上陸し、水島灘に回り、本太城を攻撃。

5月3日、小早川隆景の書状に、本太城での戦闘が記される。

5月6日、7日の毛利輝元宛ての書状には、児島での緊迫した戦闘の状況が記されているということ。

毛利方は、児島の常山城と右鼻高山城に籠城を指示。

篠原長房の軍勢は、上陸地点から、常山城を右に見ながら北上し、備中国を目指したと考えられる。

同時に、浦上氏、宇喜多氏の軍勢も、今保、妹尾、福林島に侵攻。

四国勢、備前勢は、備中国の辛川城方面を目指す。

 

5月8日、毛利元就、輝元の連名で、小早川隆景を派遣し、指揮を取らせることを知らせる書状あり。

5月15日、粟屋杢允は、辛川城と備中、備後の国境の、ほぼ中間にある小田(矢掛町)、または、高腰(井原市)辺りに戦線の後退を意見するが、元就、輝元は、備中国南部で、四国勢の進撃を阻止するべく、西阿知への着陣を指示。

戦線は、膠着状態となる。

 

5月26日、毛利氏は、織田信長を通じて、篠原長房らの成敗を指示することを将軍に求める。

6月12日、将軍、足利義昭は、篠原長房らを平定する御内書を小早川隆景に与える。

6月14日、毛利元就、安芸国郡山城で病没。

 

7月、本太城を攻撃していた香西元載は、城兵の逆襲を受け、敗退。

香西元載は、稗田村で、戦死。

この本太城での敗北を受け、篠原長房は、讃岐国宇多津に撤退する。

 

以上、篠原長房の備前国児島への侵攻と撤退ということになります。

 

実は、この篠原長房による備前国児島への上陸作戦は、阿波には、全く、史料が無く、どのような将兵が参加をしていたのか、明らかではないということ。

ちなみに、讃岐の史料は、いくつか、残されているものがあるそう。

毛利側の史料では、この時の四国の軍勢は、「阿州篠原以下」等と記されているそうで、毛利側は、篠原長房が、総司令官であると認識していたということ。

 

篠原長房が、主君の三好長治によって居城の上桜城を攻められ、討ち死にした時に、何歳だったのかは、よく分からないようです。

しかし、もし、篠原長房が、亡くなることなく、長宗我部元親と対峙することになっていたとしたら、なかなか、好敵手になったのかも。

 

追記。

 

市立図書館で、本太城のことを書いた本を見つけて、読んでみると、やはり、この日、登った場所は、城跡ではなく、城跡は、尾根でつながった、西にある小山の方のようですね。

また、行ってみたいところですが、ネットで、調べて見ると、城跡に行くのは、相当な藪で、歩くのは困難だということのよう

残念です。