この本を元に、個人的な想像を交えながら。
良寛は、「お寺」というものについて、どう考えていたのでしょう。
有名な逸話としては、越後長岡藩主の牧野忠精が、良寛の元を訪ね、
「お寺を用意するので、城下に来て欲しい」
と言ったところ、
「炊くほどは 風がもてくる 落ち葉かな」
と俳句を詠み、断ったというものがある。
良寛が、修業をした曹洞宗の寺院制度の中では、お寺の住職になる資格を得るまで、出世はしていなかったということは、以前、話しました。
つまり、当時の制度では、良寛は、曹洞宗寺院の住職にはなれないということになるのでしょう。
では、牧野忠精は、良寛に寺を与え、何をしようとしていたのか。
その辺りのことは、どうも、よく分かりませんが、良寛自身、お寺に住むつもりは、さらさら、無かったということは、よく分かる。
円通寺を出てから、良寛は、お寺や、他の僧侶とは、関わりを持たなかったのではないかと、勝手に、思っていましたが、どうも、そうではないようですね。
上の本によると、越後に戻って、乞食の生活を続ける中で、良寛は、その土地のお寺にも、気軽に、足を運び、その住職と、親しく交流し、境内で、子供たちを相手に遊び、時には、宿泊もしていたよう。
良寛は、漢詩で、他の修行僧たちのことを厳しく批判をしていますが、その、お寺の住職や、その寺に居る僧侶たちのことを、どう思っていたのか。
具体的な、逸話のようなものは、残っていないようなので、分からない。
良寛は、自分と、お寺の僧とで、「住み分け」をしていたのではないかと、上の本には、書かれていました。
つまり、寺の僧侶がするようなことには、自分は、関わらないという考えを、良寛は持っていたということなのでしょう。
実際に、良寛が、葬式や、法事を、自身で行ったり、参加をしたりしたという確かな記録は、残っていないそうですね。
また、お寺の行事に良寛が参加をしたという話も、残っていないよう。
もっとも、自分一人で、ささやかな追悼を行うことはあったようですが、大々的に、人を招いて、行った訳ではない。
当時は、それぞれの家が、どこかの寺の檀家で、良寛が、その中に割って入る余地は無かったということになるのかも知れない。
つまり、その家の葬式や、法事は、檀家の寺である僧侶が行うのが当たり前。
それは、良寛の行うことではない。
さて、良寛が、乞食をしながら、訪ねたお寺には、当然、曹洞宗のお寺もありました。
良寛が、誰に対しても、分け隔てなく、接していたことは、様々な本に書かれている。
つまり、自分自身が、厳しく、批判をし、距離を取ったはずの、曹洞宗、そして、他の僧侶たちとも、分け隔て無く、普通に接していたということ。
そうして、良寛に接していた、お寺に住む僧侶たちは、良寛のことを、どのように見ていたのでしょう。
これもまた、具体的な、逸話が残っている訳ではないようで、よく分からない。
個人的な想像としては、恐らく、
「寺に住まず、乞食をしながら、清貧な生活をしている、変わり者の僧侶」
という目で、見ていたのではないでしょうか。
もちろん、人間的には、尊敬をするところもあったでしょう。
しかし、「僧侶」としての良寛は、「変わり者」として、見られていたのかも。
ちなみに、良寛のように、「僧形」をして、家々を、乞食をして回る人たちは、他にも居ました。
例えば、「鉢叩き」(はちたたき)、「鉦叩き」(かねたたき)と呼ばれる人たち。
彼らは、文字通り、「鉢」や「鉦」を叩きながら、念仏を唱えたり、経文を唱えたりしながら、家々を、乞食して回ったそうです。
彼らは、「僧」というよりも「門付芸人」ということになる。
もしかすると、良寛もまた、そのような人たちと同類に見られていたのかも知れない。
良寛が、約20年、生活をしていた国上山にある「五合庵」ですが、この五合庵は、そもそも、この国上山にある国上寺の住職の隠居所として使用をされていたものだそう。
そのため、五合庵が、本来の目的で使われている間は、良寛は、他の場所に住むことになる。
個人的に不思議なのは、この国上寺の僧と、良寛との交流の逸話が無いということ。
国上寺の僧は、良寛に、あまり関心を持たなかったということなのでしょうかね。
実際に、良寛という人物が、全国的に名前を知られるようになったのは、相馬御風が明治時代に書いた「大愚良寛」という本がきっかけだったようです。
それ以前、良寛は、地方に住む無名の一人の僧で、誰も、知る人は居なかった。
だから、当時の、いわゆる名僧、高僧と呼ばれる人たちが、良寛のことをどう思っていたのか、知るよしもない。
そもそも、そういう名僧、高僧と呼ばれる人たちは、良寛という一乞食僧など、知らなかったということになるのでしょう。
恐らく、良寛は、いわゆる「高僧」「名僧」と呼ばれる人たちを、あまり、評価はしていなかったものと思われます。
それは、良寛の師匠である国仙にしろ、良寛が、一時、師事したと思われる宗龍もまた同じ。
ちなみに、別の本には、「良寛は、宗龍の影響を強く受けているのでは」と書かれていましたが、上の本によると、宗龍もまた、当時としては、特異な僧ではありましたが、曹洞宗宗門の発展と、自身の出世に邁進した僧であることには変わりないよう。
その事績を見ると、良寛が、宗龍を尊敬していたとは思えない。
良寛は、子供の頃に師事した大森子陽を偲ぶ漢詩は残していますが、国仙や宗龍を偲ぶものは、何も、残していないようですね。
しかし、国仙から貰った「印可」は、生涯、大切にしていたようなので、尊敬をしてない訳ではなかったのでしょう。
さて、良寛は、仏教の「宗派」について、どのような意識を持っていたのでしょう。
ある逸話によれば、ある人が、良寛を指して、良寛の宗派は「雑炊宗」だと言ったというものがあります。
つまり、良寛が、僧として行っていることには、様々な宗派のものが含まれているということ。
良寛は、禅宗の「座禅」を組むことは、もちろん、浄土宗、浄土真宗の「念仏」や、日蓮宗の「題目」も唱える。
良寛が、訪ねる家は、当然、様々な宗派のお寺の檀家で、その家の宗派に合わせて、様々なことをしていたということでしょう。
つまり、良寛には、「宗派」というものに、何のこだわりもなかったということ。
これは、よく考えれば、とても不思議な話、と、言うことになると思います。
普通、宗教者というものは、自分が学び、修業をしたものを「正しい」と思い、他の宗派を否定するもの。
しかし、良寛には、そういう「こだわり」のようなものが無かったよう。
これは、なぜなのか。
上の本によれば、良寛は、釈尊が仏教を始めた最初の時代を理想とし、実践をしていたのではないかということのよう。
それは、良寛が、徹底して、乞食行で、生活をすることを決めたことを見ても分かる。
つまり、良寛は、そもそも、釈尊が始めた「仏教」の根本を、実践しようとしていたので、その釈尊の教えが、どう分かれて行こうが、元は、同じ。
つまり、どの宗派の教えを行おうが、それが「仏教」であることに変わりはない。
だから、座禅をするのも、念仏、題目を唱えるのも、良寛にとっては、同じこと。
どのような宗教でも、その始祖の教えは、時代と共に、変化をし、様々な宗派に分かれて行くもの。
そして、始祖の教えは、段々と変化をして行くことで、結局、原型を留めないようになってしまう。
良寛は、「仏教」という教えの、根本に戻ろうとしたのかも知れない。
もっとも、良寛の実践していたことが、本当に、釈尊の時代の、正しい仏教のあり方だったのかどうかは、別の問題。
しかし、少なくとも、良寛は、そう思っていたということのよう。
個人的にも、仏教にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、宗派の違いで、激しく対立をするというのは、何とも、馬鹿らしくて仕方が無いと思うところ。
そもそも、最初の始祖の教えに従えば、何の問題も無いはず。
宗派が分かれ、対立をするというのは、始祖の教えに反し、個人的な利益によって、始祖の教えを改ざんした結果でしょう。
さて、以前、俳諧師の井上井月が、子供の頃に、良寛に、会ったことがあるのではないかと書きましたが、それは、勘違いでした。
ある本によると、どうも、幕末、越後長岡藩の筆頭家老、軍事総督として、北越戦争を戦った河井継之助の父が、良寛と交流があったそうで、もしかすると、この河井継之助は、子供の頃、良寛に会ったことがあるのかも知れない。
河井継之助が生まれたのが、1827年。
良寛が亡くなったのが、1831年。
河井継之助が四歳の時に、良寛が亡くなったということになる。
果たして、実際は、どうだったのか。