良寛は、なぜ、円通寺を出てから、亡くなるまでの間、寺に入ることなく、一人の托鉢僧として、「乞食」を続ける人生を送ったのか。

大きな疑問の一つでした。

以下、この本から、紹介します。

 

 

良寛は、なぜ、生涯を、一人の「乞食僧」として過ごしたのか。

それには、「乞食」という行為に、どのような意味があったのかということを理解することが必要になります。

 

そもそも、仏教の始祖、釈尊は、出家した僧が、経済活動を行うことを禁止していました。

そのため、僧が生きて行くためには、庶民を相手に「乞食」をしなければならなかった。

僧が、寺が、自給自足をして、自分たちで生活をして行くようになったのは、中国に仏教が広まった後、中国で始まったもの。

また、有名な僧、寺は、時の権力者の支援を受け、裕福な暮らしをするようにもなってしまうことになる。

 

良寛が生きていた時代も、そう。

円通寺での修業時代もまた、月に何度か、形式としての「乞食行」つまり「托鉢」は、存在をしていましたが、円通寺の僧たちは、それに頼って生活をしていた訳ではない。

良寛は、円通寺を離れた後、諸国行脚をしながら、「乞食」だけで、生きて行くことになる。

そして、生まれ故郷の越後に戻ってからも、それは、変わらなかった。

 

良寛は、道元を尊敬し、その著書「正法眼蔵」の思想を、とても、重視していました。

そして、その「正法眼蔵」の中に、「禅僧とは、どうあるべきか」という話もあり、良寛は、それを、忠実に守ろうとしていたと思われます。

 

そして、そこには、古くから続く「福田の思想」というものがありました。

この「福田の思想」とは、何か。

 

この「福田」とは、「比丘」「比丘尼」(戒と律を守ることを誓い、僧になった男女)を指す言葉です。

そして、一般の在俗者は、乞食托鉢をする、この「比丘」「比丘尼」に、糧を喜捨することが、自分たちの善根となり、功徳となるという思想があり、そのため、在俗者が、乞食托鉢の僧に喜捨することは、善根の種を植え付けるという行為になる。

そして、喜捨によって、その僧に植え付けられた善根の種が、やがて、功徳となって実ることになる。

つまり、僧は、在俗者が、善根を植え付け、育てるための「田」、つまり、「福田」です。

 

そして、この、善根を種として受け取り、それを福に変換する力を僧は持っている。

この力のことを指すのが「回向」(えこう)の本来の意味だそうです。

 

なぜ、僧には、この「回向」の力があるのか。

説明をすると、色々と複雑なことになるので省きますが、一つは「乞食」をする僧は、全てを捨て、「身をやつす」ことによって、名利、欲望といった煩悩に惑わされることがなく、真理を求めているため。

道元は、釈尊の時代から伝わる、正しい、身のやつし方を、「正法眼蔵」に記しています。

 

一、 建物の中に住まず、森や林の樹木の下で生活すること。

二、 袈裟を身につけること。この「袈裟」が、僧が「福田」であることを示している。(その説明は、省きます)

三、 乞食者に身をやつして、生活の糧を得ること。

四、 出家者として病を得た時は、人畜の大小便を薬として用いること。

 

一つ目は、インドという暑い土地でこそ可能。

四つ目は、インドでは、牛が聖獣として扱われ、当時、その尿は、疲労回復の薬として、糞は解熱剤として使われていたそう。

どちらも、日本では無理な話なので、良寛は、「二」と「三」を、自分の修業、生活として生きた。

つまり、「乞食行」を、生涯、続けたということ。

 

良寛は、道元の教えを守り、生涯、「乞食行」を続けることで、庶民の「福田」であろうとしたということ。

それを知れば、良寛が、生涯、一人の乞食僧として生きたことも、納得です。

 

良寛は、国上山の五合庵に暮らしていた頃、周辺の村々だけではなく、時には、何十キロも離れた土地まで、托鉢に出かけていたそうです。

それもまた、より、多くの人に喜捨をしてもらい、自身が「福田」としての役割を果たすためだったのでしょう。

 

ちなみに、当時、良寛が、托鉢の時に、持ち歩いてものが書き残されています。

 

受用具(受け頂き、日常用いているもの)。

頭巾、手ぬぐい、鼻紙、扇子、銭、おはじき。

 

随身具(身につけたり、持ち歩くもの)。

笠、脚絆、甲掛、上手巾、下手巾、杖、掛絡(托鉢用の小型の袈裟)。

 

行履物(禅僧の生活用品)。

着物(下着を含む)、桐油(雨から所持品を守る油紙)、鉢嚢(喜捨を受ける鉢と、身に付けている物を持つ運ぶための肩からかける袋)。

 

子供の頃に、実際に、良寛に接していた解良栄重の書いた「良寛禅師奇話」には、良寛が、よく忘れ物をするので、ある人が、所持品を紙に書いて、家を立ち去る時に、確認をしてはどうかと勧めたということ。

残されたメモが、それでしょう。

メモの最後には「家を出る時には、これを読むこと。そうでなければ、不自由になります」と書かれているそう。

 

ちなみに、この「良寛禅師奇話」というタイトルにも見られるように、良寛は「禅師」と呼ばれていた。

この「禅師」という言葉、禅僧に対する敬称のようなものかと勝手に思っていましたが、どうも、そうではないようです。

もちろん、敬称としての意味もあったのでしょうが、この「禅師」という言葉は、当時、軽々しく使える言葉ではなかったようです。

 

この「禅師」とは、本来、朝廷に貢献のあった高僧に、天皇が与える称号だったそうです。

江戸時代には、まず、幕府の承認があり、それを認めた上で、天皇が発給したということ。

あの「臨済宗中興の祖」と言われる江戸時代の名僧、白隠でさえ、この「禅師」の称号を贈られたのは、白隠の死の翌年だったということ。

 

白隠は、江戸時代に、臨済宗の復興、発展に努めた名僧で、いくつかの寺の再興や、開山にも関わっている。

しかし、良寛は、いわゆる「宗門の発展」に関わっている訳ではないですし、積極的に民衆の教化に努めた訳ではない。

自分の寺や、門徒を持っている訳でもない。

当然、天皇から「禅師」の称号を贈られることもなかった訳ですが、解良栄重を始め、当時、実際に、良寛に接触をした、世間で名のある名士たちは、全て、良寛を紹介する時には「良寛禅師」と記しているそう。

 

一見、ただ、乞食をしているだけの良寛が、なぜ、「禅師」と呼ばれたのか。

つまり、なぜ、宗教的なことはもちろん、他にも、何の知識をひけらかすことも、民衆に説法をすることもなかった良寛を、多くの人は、優れた禅僧と認識をしたのか。

それは、またの機会に。