今、良寛について、この本を読書中。

なかなか、分厚い本で、値段も高価。

しかし、この本。

良寛が生きていた時代が、どのような社会だったのか。

そして、良寛が、その社会の中で、どのような環境で生活をし、どのような影響を受け、何を考えて行動していたのか。

とても、詳しく書かれていて、良寛に関心がある人は、読んで置かなければならない本ということになるのではないでしょうかね。

 

 

色々と、話したいことが、たくさんあるのですが、取りあえず、良寛が生きていた当時の「寺請制度」と「曹洞宗」について。

他のことは、また、機会があれば、追々に。

 

戦国時代に、「キリスト教」が、日本に持ち込まれ、多くの日本人が、キリスト教に入信し、「キリシタン」になります。

しかし、豊臣秀吉は、この「キリスト教」を禁止にし、豊臣秀吉の死後、天下を取り、江戸幕府を開いた徳川家康もまた、「キリスト教」を禁教にします。

 

そして、日本人が、「キリシタン」にならないために、幕府は、「寺請制度」というものを作ります。

これは、日本人の全てを、仏教の「寺」に、強制的に所属させ、「キリシタン」になることを防ごうという考えの元、作られた制度です。

そして、この「寺請制度」は、今の「戸籍」のような役割を果たすことにもなりました。

 

日本の仏教が駄目になったのは、この江戸幕府の作った「寺請制度」がきっかけになったというのは、よく言われるところ。

なぜ、「寺請制度」によって、日本の「仏教」が駄目になって行くことになったのか。

 

日本人の全てが、この「寺請制度」によって、必ず、どこかの寺に、檀家として所属をしなければならなくなってしまった。

 

これは、逆に言えば、寺は、労せずして、檀家を得ることが出来るようになったということ。

つまり、寺、僧侶は、積極的に、布教活動をする必要が無くなり、当たり前のように、寺には、多くの檀家が付くことになる。

布教活動をする必要が無ければ、熱心に、修業をする必要も無い。

寺、そして、僧侶が、堕落をするのは、当然の話。

 

良寛は、18歳の時に、父、以南の元で、名主見習いの立場となります。

しかし、その直後に、家から出奔。

22歳の時に、光照寺で出家をします。

かつては、18歳で、家出をした直後に、光照寺に入ったと言われていましたが、それは、今では、否定をされているよう。

では、良寛は、家出をしてから、光照寺に入るまで、どこで、何をしていたのか。

 

実は、良寛は、家を出てから光照寺に入るまで、放浪生活をしていたようです。

なぜ、良寛が、しばらく、放浪生活をしなければならなかったのか。

そこにも「寺請制度」の問題があります。

 

この「寺請制度」によって、寺は、檀家の家族の世帯構成、年齢、性別、名前、職業を詳しく記した「宗門人別帳」を作成しなければなりませんでした。

また、家族以外の、下男、下女、長期滞在をしている「厄介」と呼ばれる人も、この「人別帳」に記載しなければならなかった。

この家族構成が変わる時には、戸主が、寺に届け出をしなければならなかった。

そして、住職が、「人別帳」を書き換え、町村の名主、年寄りなどが、それが正しいことを証明する奥書を記すことになる。

 

良寛が、家を出て、失踪したということは、当時は、まさに一大事で、庶民の場合、それは「欠落」と呼ばれます。

家族の誰かが欠落をした場合、町村の役人は、その捜索義務が課せられます。

そして、決められた期間内に発見することが出来ない場合、欠落をした人は、「人別帳」から外され、その家族、檀家、町村から永久追放となり「無宿人」となる。

つまり、この時、良寛は、「無宿人」になる可能性があったということ。

 

この「無宿人」は、今で言えば、「無戸籍」になるということで、当時は、「無宿人」であるというだけで、犯罪者扱いをされることもあったようです。

それは、良寛自身にとっても、非常に、危険なことだった。

 

良寛が、名主見習いを放り出し、家を出奔したのは、僧になりたいという強い意志があったものと思われます。

しかし、当時、誰でも、自由に出家をすることが出来た訳ではありません。

当時、出家をするためには、戸主が、その家人が出家をすることを認め、檀家である寺の人別帳から、その家人の名前を抜いてもらう必要がありました。

つまり、良寛は、父、以南の許可が無ければ、出家をすることが出来なかった。

良寛は、家を出奔した後、しばらく、行方をくらまし、放浪をした後は、地元に戻り、周囲の人たちの助けを借りて、父、以南を、説得し、出家をするために交渉をしていたのだろうと思われます。

また、行方をくらましていた間、どこかの寺で出家をしようと試みたのかも知れませんが、それは、自身が「欠落」の状態である限り、どこの寺でも、良寛を受け入れることは制度的に不可能だったということ。

そして、その後、光照寺に世話になることになり、22歳の時に、ようやく、父、以南の許可を得て、出家をすることが出来たということ。

この時、良寛は、ようやく、正式な手続きを経て、「廃嫡」され、寺の「人別帳」から名前を抜かれ、出家が出来る状態になったということになります。

 

良寛は、円通寺住職、大忍国仙の元で、僧となり、円通寺で修行をすることになります。

しかし、良寛は、円通寺での修行を終えると、曹洞宗とは決別をすることに。

良寛は、生涯、曹洞宗の祖、道元を尊敬し、その著書である「正法眼蔵」を愛読書にしていましたが、その良寛が、なぜ、曹洞宗と決別をしてしまったのか。

 

円通寺は、奈良時代の行基が創建したという伝承を持ち、本尊は、行基作と伝えられる観音菩薩。

その後、良高という人物が、曹洞宗寺院として円通寺を再興。

良高が開山をしたという備中国新見の再来寺にちなみ、円通寺は、曹洞宗の中では、再来寺派に属する。

そして、国仙が住職であり、良寛が在籍をしていた時代に、円通寺は、曹洞宗の中では、最上位に当たる「常恒地」に格上げされる。

 

延享2年(1745)、曹洞宗寺院の数は、17550寺だったそうで、その中で、永平寺派は、わずか、1174寺、能登国輪島の総持寺派は、曹洞宗の9割を占める16736寺。

円通寺は、総持寺派になる。

曹洞宗の祖は、道元で、永平寺は、道元が創建した寺ですが、なぜ、その道元を祖とする永平寺派が、圧倒的な少数派になってしまったのか。

実は、ここにも、江戸幕府の宗教政策がありました。

 

江戸幕府が、その宗教の思想、成り立ちに関係なく、かなり、恣意的に、宗派を決定していたことは、以前、一遍に始まる「時宗」に興味を持ち、色々と調べたことで、知っていました。

例えば、時宗とは、思想も、成り立ちも違う念仏聖の宗派は、全て、「時宗」ということで、まとめられてしまったよう。

また、室町時代の終わりには、高野山を拠点する「高野聖」は、全て「時宗」の聖だったようですが、それは、幕府によって、強制的に、「真言宗」に改宗させられてしまったよう。

 

そして、禅宗もまた、例外ではない。

江戸時代の初め、日本の禅宗には、臨済宗、曹洞宗の他に、様々な系統の宗派が存在をしていたそうです。

そして、幕府は、臨済宗以外の宗派の禅宗を「曹洞宗」として、ひとまとめにしてしまった。

つまり、江戸時代の「曹洞宗」は、道元が始めたものではなく、雑多な宗派が混ざり合っていたということ。

つまり、良寛が、円通寺で修行をしていた「禅の教え」は、道元が「正法眼蔵」で示した教えとは、必ずしも、合致するものではなかった。

これが、良寛が、道元の教えと「正法眼蔵」に傾倒しながら、曹洞宗とは決別をした理由の一つ。

良寛の漢詩からは、この円通寺での修業時代に、この「正法眼蔵」と出会い、大きな感銘を受け、その後、自分の修業と、「正法眼蔵」の思想との違いに苦悩しながら、生活をしていたことが分かるよう。

 

そして、良寛は、同じ時代の僧たちの行動を、漢詩で、繰り返し、厳しく、批判をしている。

江戸時代、「寺請制度」で、日本の仏教、僧侶は、堕落をして行った。

そもそも、江戸時代、出家をする人も、多くが、家の次男、三男など、自分で自立が出来ない者が多かったという話。

つまり、そもそも、「仏の道」を学び、実践をするために、僧になった訳ではない。

そして、彼らが、仏教に求めたものは「金儲け」です。

良寛のように、真に「仏の道」を求め、実践をするために僧となった人は、100人に1人くらい。

そして、その100人に1人の、「仏の道」のために出家をした僧でも、多くが、その寺院組織の中での出世の道を求めたということ。

つまり、良寛のような、真摯に、「仏の道」を求めて、修業をしている僧は、非常に、希な存在だった。

 

江戸時代、「寺請制度」の中で、仏教の寺は、民衆、つまり、労せずして得た檀家を相手にした「金儲け」に精を出すことになる。

葬式、法事をするようになり、庶民からお金を取るのは、その典型でしょう。

ちなみに、以前、読んだ本によると、そもそも、この「葬式」を、庶民を相手に行うようになったのは、江戸時代の曹洞宗が始まりだということ。

そして、他の宗派も、それを真似るようになる。

更に、密教で行われていた、現世利益を求める「加持祈祷」もまた、曹洞宗は取り入れることになる。

それは、他の宗派でも、同じでしょう。

これも、庶民から、金を巻き上げるため。

こういった、寺院組織、そして、周囲の修行僧たちに、良寛が、愛想を尽かし、曹洞宗と決別をするのは自然な話。

 

通常、良寛が、円通寺を離れたのは、師である国仙の死後と言われていますが、良寛の漢詩を読むと、良寛は、国仙が亡くなる前に、円通寺を離れたことが分かるということ。

恐らく、良寛は、国仙から「印可」を受けた、すぐ後に、円通寺を離れている。

個人的に、この「印可」を得れば、一人前の僧として修業は終わったものと思っていたのですが、どうも、そうではないようです。

実は、この「印可」を得た後も、寺院組織での修業、つまり、「出世」は続くことになる。

ちなみに、この「印可」を得ただけでは、弟子を取ることも、他の寺の住職になることも、曹洞宗の中では、認められなかったようです。

しかし、良寛は、この「印可」を得た直後、円通寺を離れ、曹洞宗と決別をしてしまった。

つまり、良寛は、当時の制度の中では、曹洞宗の僧として、正式に弟子を取ることも、寺の住職になることも出来なかったということ。

 

ちなみに、良寛は、円通寺の中で、「庵」に住むことを許された「庵主」であったのだろうと言われていますが、これは、周囲の修行僧たちとの間で、孤立をしていた良寛に、国仙が配慮をしたためではないかと、この本に書かれていました。

真摯に修業に取り組む良寛が、円通寺での修業時代、他の僧たちとは違った、異質な存在で、周囲から孤立をしていたということは、良寛自身の漢詩にも書かれている。

もしかすると、この本の著者の推測は、正しいのかも知れない。

 

また、禅宗の僧は、地方行脚をするのが一般的でしたが、その行脚にも、決められた慣習があったようですね。

そして、その慣習に沿った行脚をしなければ、寺院組織の中で、出世をすることは出来ない。

しかし、曹洞宗と決別をした良寛は、その慣習とも決別をし、独自の「乞食行」を、生涯、貫くことになる。

 

ちなみに、曹洞宗と言えば、「道元を祖」として、「只管打坐」で、「公案」を用いなかったと言われますが、これは、間違いだそうです。

道元は、そもそも、自分の宗派を「曹洞宗」とはしていないということ。

そして、道元もまた「公案」を重視し、実際に、修業の中で、「公案」を用い、著書の「正法眼蔵」でも、この「公案」が、多用されているそう。

今の曹洞宗に持つイメージは、明治以降に作られたものだそうです。

 

さて、他の話は、他の機会に。