京都見廻l組については、以前、少し、書きましたが、更に、詳しく。

 

幕末、ペリーが浦賀に来航してから、日本国内は、「開国」「攘夷」を巡って、大きく揺れ動き、社会は乱れました。

その中で、政治の舞台は、江戸から、次第に、京都に移ることになる。

これは、「尊皇攘夷」の思想の元、京都の天皇や公卿が、大きな政治的発言力を持つようになったからで、この天皇、公卿の力を利用し、幕府の政治を揺るがそうという勢力が、京都で活動を活発化させることになる。

尊皇攘夷過激派による「天誅」と呼ばれる暗殺事件も多発し、幕府は、京都の治安維持の強化に乗り出すことになる。

その中心になるのが、文久2年(1862)に設置された「京都守護職」です。

この京都守護職には、会津藩が任命され、京都の治安維持を担うことになる。

この京都守護職の配下として、京都の治安維持の一端を担うことになったのが「新選組」で、こちらは、浪人の集団。

いわば、彼らは、幕府側の「志士」ということになるのでしょう。

 

そして、幕府は、更に、京都の治安維持強化のために「京都見廻組」という組織を設置することになる。

 

 

「新選組」に関する本が、数多く、出版されているのに比べ、この「京都見廻組」をテーマとした本は、非常に、少ない。

それは、恐らく、世間の関心が少ないから、と、言うことになるのでしょう。

 

上の本は、その数少ない「京都見廻組」をテーマにした本の一つ。

この本は、当時の、公的史料、日記、関係者の書簡などから、見廻組に関するものを

集め、その確かな史料を元に、「京都見廻組」の歴史を追ったものです。

 

以下、「京都見廻組」の誕生から、幕府が王政復古によって消滅するまでの「京都見廻組」の歴史を、たどってみます。

 

 

元治元年(1864)4月26日、蒔田相模守広孝、松平因幡守康正が、江戸城に召され、「京都見回役」に任命される。

蒔田相模守は、備中国賀陽郡浅尾で7716石を知行する旗本だったのですが、この約一年前、石高が一万石に見直され、大名になり、浅尾藩の藩主となった人物。

松平因幡守は、下総国香取郡飯笹の他、6000石を領する旗本。

これが、「京都見廻組」の誕生の端緒となる。

しかし、誰が、この「見廻組」を発案し、どのようにして決定されたのかは、史料が無く、不明だそう。

定員は、蒔田配下の200人、松平配下の200人となる。

ちなみに、この二組は、別組織ということになる。

 

そして、この二人の「京都見廻役」の配下に、それぞれ「与頭」(くみがしら)が二人、その下に、更に「与頭勤方」が、二人ずつ、配置される。

 

この「与頭勤方」の下に「組の者」が所属します。この「組の者」を、ここでは「組士」とします。

この「組士」は、「旗本」ではなく「御家人」から登用されました。ちなみに、「御家人」の中では、身分の高い者たちから選ばれたそうです。

 

蒔田相模守は、組士の確保を幕府に一任し、5月11日、藩士、約80人を率いて、京都に向かう。

松平因幡守は、自身で、組士の確保に動く。恐らく、蒔田相模守の組士の確保も任されていたのだろうということ。

しかし、松平因幡守は、組士の確保に苦労し、一時は「新選組」を配下に入れようと、会津藩と交渉をするが、拒否される。ようやく、体裁が整ったのが7月で、「見廻組」の下に、「見廻組並」「見廻組御雇」という身分を設けて、人員を補ったそう。

ちなみに、「見廻組御雇」は、御家人本人ではなく、部屋住みの次男、三男から選ばれたそう。

この時、登用されたのは、「肝煎」(与頭の下)が4人、「見廻組」が45人、「見廻組並」が137人、「見廻組御雇」が、19人。計305人。

 

彼らは、それぞれの都合によって江戸を出発し、7月下旬から8月中旬にかけて、京都に入る。

松平因幡守は、7月10日に、江戸を出発。この頃、因幡守を出雲守と変える。

 

蒔田相模守が、京都に入る10日前の5月15日、この日、江戸で与頭、与頭勤方が任命されますが、大坂城でも、与頭勤方、二人(高久半之助、速水又四郎)が任命される。

蒔田相模守は、5月25日、京都に入る。

6月5日、新選組が、古高俊太郎を捕縛。「池田屋事件」が発生をすることになる。

新選組は、会津藩に応援を頼み、会津藩では、会議の結果、京都所司代、東西京都奉行、その他、禁裏守衛総督の一橋家、彦根藩、淀藩にも応援を頼み、蒔田相模守にも応援を要請。蒔田相模守は、浅尾藩士を派遣し、関白、二条斉敬邸の警固を行う。

6月16日、大坂で、佐々木只三郎、坂本杢三郎が、与頭勤方に任命される。

 

6月21日、京都に接近する長州軍に備え、東寺に屯所を置いていた見廻組は、四ツ塚関内の警備を命じられる。この時、蒔田相模守の配下には、高久、速水、佐々木、坂本の四人の与頭勤方と、浅尾藩兵で、87人の兵が居たということ。

6月24日、長州軍、山崎、天王山に布陣。

その後、蒔田相模守は、九条河原に移動。

7月18日、長州軍、会津藩に宣戦布告。「禁門の変」の始まりです。この日、松平出雲守は京都に入ったと思われる。

戦闘の砲撃音を聞き、九条河原の見廻組は、御所に向かう。途中で、敗走中の長州兵と遭遇し、高久半之助が、一人を槍で討ち取る。

7月20日、会津藩、新選組らと共に、長州軍残党が籠る天王山に向けて京都を出発。この時、蒔田相模守は、150人の見廻組を率いていたよう。

7月21日、長州軍の真木和泉ら、天王山で自害。「禁門の変」終結。

7月22日、松平出雲守の配下の者、20人ほどが、宇治で長州軍の残党を捕らえる。

7月23日、松平容保の命令で、蒔田相模守は醍醐寺に出動。不審者を捕らえる。

 

8月1日、幕府は、京都市中に見廻組が、市中を巡邏するという町触れを出す。

この頃、見廻組、新選組の他、京都所司代と、歩兵隊が、市中の巡邏をしていたそうです。

8月3日、松平出雲守は、幕府から四ツ塚関門の警備を命じられる。

また、蒔田相模守は、御所蛤門内の新在家の警備を命じられる。

8月20日頃、蒔田相模守配下の組士が、大坂で、不審者(楢林昌軒)を捕らえる。これは、祇園の芸妓の密告によるということ。

 

見廻組では、7月4日までに約300人の組士が登用され、8月中旬までには、京都に入る。

7月20日、見廻組、26人、見廻組並、10人、見廻組並御雇、7人を登用。

8月23日、見廻組、14人、見廻組並、5人を登用。

9月11日、見廻組、9人、見廻組並、1人を登用。

合計、377人。

その後も、追加登用は続くが、全員が京都に入った訳ではなく、元治元年の見廻組の総数は、370人前後だったと考えられる。

辞退をする人や、見廻組から、他の役職に移動をする人も居たそう。

彼らを、幕府が、どこに収容しようとしていたのか、全く、分からないということ。

彼らは、民家や寺院を宿にしていたと考えられるようです。

慶応元年(1865)12月13日、中立売り通りにある屋敷に、見廻組が移ったという記録があり、ここが、幕府が、見廻組のために用意した施設と思われる。

 

元治元年(1864)10月15日、「禁門の変」で処分を受けた公卿の屋敷の「番」を命じられる。

この頃、見廻組の組織は、見廻役(蒔田相模守、松平出雲守)の下に、与頭が二人、与頭勤方が三人、配置されていたことが分かるそう。ちなみに、蒔田相模守の見廻組と、松平出雲守の見廻組は、別組織になります。相互に、人の移動は、確認できないそう。

11月1日、相模守組の御所内の新在家、出雲守組の四ツ塚の警備と、公卿邸の監視に加え、御所内の公卿門の警備が命じられる。

 

12月1日、禁裏守衛総督の徳川慶喜は、水戸、天狗党の東上を迎え撃つための朝廷の許可を得る。この時、出雲守組の見廻組もまた、出陣を命じられる。出雲守は、事前に、組士を派遣し、天狗党の動向を探っていた。

12月3日、徳川慶喜率いる天狗党討伐軍が、京都を出陣。出雲守組も、これに加わる。出雲守は、280人を率いていたようですが、これには、自分の家臣と、相模守組からの応援もあったのだろうということ。

12月15日、敦賀での軍議に出席。

12月20日、天狗党、降伏。

12月26日、京都に向けて、敦賀を出発。

 

慶応元年(1865)1月4日、長州藩の恭順により、第一次長州征伐が終結。

1月8日、新選組が、大坂の石蔵屋という善哉屋を襲撃。「善哉屋事件」です。

この「善哉屋事件」は、土佐脱藩の浪士たちが、大坂市中に放火をし、幕府を混乱させようとしたもの。新選組が、石蔵屋で大利鼎吉を殺害し、関係書類を押収。大坂町奉行の役人や、諸藩の兵士や、京都の会津藩兵も出動したそう。

 

1月25日、佐々木六角源氏太夫を捕縛するよう見廻組は命令を受ける。

この「佐々木六角源氏太夫」とは、宇多源氏佐々木氏を騙り、配下を集め、文久3年に会津藩と接触していることが確認できるそう。この頃、兵庫付近で、不審な活動を起こし、その後、京都に向かったことから、見廻組に捕縛命令が出ることになる。

佐々木六角源氏太夫が、何を目的に活動をしていたのかは、不明だということ。

1月26日、下河原鷲尾町で、相模守組の与頭勤方、佐々木只三郎の率いる見廻組が、佐々木六角源氏太夫と、その配下、12人を捕縛。

1月27日、新選組が、大坂に向かい、佐々木六角源氏太夫の残党、23人を捕縛。

2月19日、出雲守組が、御所の南門の警備を命じられる。

3月16日、相模守組が任されていた新在家の警備に、出雲守組も加わる。

3月26日、祇園一帯で大きな火事があり、新選組、見廻組も出動する。

4月2日、見廻組士、西原邦之助が、夜間の巡邏の中、堀川通り綾小路下ルにある常念寺の門前で、三人の刺客によって斬りつけられ、重傷を負う。間もなく、死亡。

 

閏5月13日、将軍、徳川家茂の上洛の最中、近江国膳所で、徳川家茂暗殺計画の陰謀が発覚する。

閏5月14日、京都奉行所が、首謀者、川瀬太宰を捕縛。膳所藩でも、同志29人が捕縛される。

閏5月15日、京都町奉行所与力、見廻組、新選組が、大津に向かう。大津の川瀬の屋敷には川瀬の妻が居たが、妻は、夫の捕縛を知り、関係書類を燃やし、自害。同日、京都市中巡邏の区域が変更される。この時、市中巡邏を担当していたのは、見廻組、新鮮組の他、京都守護職、京都所司代、加賀藩、二条城の御定番組です。

閏5月22日、将軍、徳川家茂、入京。

閏5月24日、将軍、徳川家茂、第二次長州征伐のため、大坂城に向かう。

9月16日、徳川家茂、再上洛。21日、参内し、長州征伐の勅許を得る。23日、再び、大坂城へ。

10月14日、徳川家茂、また、二条城へ。相模守組は、二条城大宮口を警備。

この頃までに、少なくとも、12人の組士の減少が確認されるということ。これに対して、一人の増員が確認されるそう。

12月25日、与頭勤方の佐々木只三郎が、与頭に昇進。これは、異例の人事で、見廻組での佐々木只三郎の立場を、よく表しているということ。

12月28日、21人の組士が採用される。この前後に、数人の組士の出入りがあったそう。

ちなみに、慶応2年3月2日の史料では、363人の組士が居たことが確認されるそう。

 

慶応2年(1866)1月6日、蒔田相模守、京師文武場の奉行に任命される。

この文武場は、中立売通り智恵光院の見廻組の組士屋敷の一角に設けられ、結局、奉行職は設けられず、蒔田相模守、松平出雲守は、文武場の頭取となる。同時に、与頭の久保田善三郎、佐々木只三郎、与頭勤方の高久半之助が、頭取並に任命される。

2月8日、文武場、開場。この文武場では、槍術、剣術、文学(学問一般)の稽古が行われたよう。対象は、見廻組や、一橋家家臣、京都町奉行、京都所司代、その他、与力、同心たち。

2月14日、公卿門前の警備を免じられ、御台所門前の警備を命じられる。

2月28日、下加茂神社に参詣して帰る途中の久世通熙の行列に、何者かが、乱入しようとする事件が起きる。これは、見廻組の組士、高橋与八郎の犯行だった。

高橋与八郎は、酒に酔った状態で、女と歩いていたところ、久世家の家士に端に寄るように言われ、口論となる。そして、高橋は、小刀を抜いたが、ある人物が仲介に入り、高橋は、女を置いて、その場を去ったということ。また、二度、三度、戻って来て、久世の行列に因縁をつけたとも。その後、女の供述で、高橋の身元が判明。

3月8日、高橋与八郎は、切腹。

3月14日、守護職は、高橋与八郎の上司であった、松平出雲守と、与頭の久保田善三郎、土屋助三郎を処分。松平出雲守と久保田善三郎は、役職を罷免される。出雲守組の組士は、一時、蒔田相模守が預かることになる。

4月13日、蒔田相模守、大坂へ。この頃、長州藩の第二奇兵隊が、藩と対立をして暴走。第二奇兵隊は、備中国の倉敷代官所を襲撃、更に、蒔田相模守の備中国浅尾藩領内に侵入する。この暴動は、松山藩、岡山藩の兵によって鎮圧される。蒔田相模守は、大坂で幕閣に許可を得て、再び、京都へ。

4月15日、蒔田相模守は、国元の浅尾藩領に向かう。

5月14日、蒔田相模守、国元から京都に戻る。

6月7日、第二次長州征伐が始まる。

7月20日、徳川家茂、大坂城で死去。

9月2日、厳島で、幕府の使者、勝海舟と長州藩との間で、休戦協定が結ばれる。

9月12日、守護職から、御所周りの警備が命じられる。

9月13日、二条城定番の部下、与力、同心たちが、見廻組に編入される。

翌年、春頃の見廻組の組士の総数は、537人だそう。

 

6月10日、与頭勤方の大沢源次郎が、小十人組に転役。この前後、他にも、人事異動が、いくらか続いたよう。

この大沢源次郎は、10月に陸軍奉行並支配となるが、その直後、土方歳三率いる新選組が、大沢源次郎を捕縛。この時、陸軍奉行の支配調役だった渋沢栄一も同行。大沢が、見廻組に在籍していた時の不祥事が原因となっている。大沢は、見廻組に在籍中、汚職により私腹を肥やしていたということ。

 

10月16日、徳川慶喜、実質的な将軍就任を表明。

10月29日、守護職から、8人の公卿の屋敷の警備、監視が命じられる。

これは、幕府の第二次長州征伐の失敗による、王政復古派と佐幕派の公卿の対立から生じたもの。朝廷内では、激しい政治的駆け引きが行われていた。

12月5日、徳川慶喜、第15代将軍に就任。

12月25日、孝明天皇、崩御。

慶応3年(1866)1月15日、信州飯田藩1万5千石、堀石見守親義が、京都見廻役に任命される。

この頃、見廻組の組織運営について、内部告発をする文書が、幕府機関に提出されているのが残っているそう。誰が書いたのかは不明。この文書からは、見廻役は、単なる飾りで、実質的に、見廻組を支配していたのは、与頭である佐々木只三郎だったことが読み取れる。また、見廻組の幹部が、仕事をしていないので不要だという話も。その他、様々な批判が書かれている。

 

1月27日、孝明天皇の遺体が、後月東山陵に葬られる。この時、見廻組は、御所に警備につく。

3月24日、見廻組と、幕府歩兵隊が衝突。北野天満宮の遊廓で、歩兵が暴れていたのを佐々木只三郎と組士が取り締まる。その後、歩兵隊幹部が、佐々木の居る観音寺に押しかけ、抗議。武装した歩兵たちも駆けつけ、銃撃。見廻組の組士も、多数が集まり、対峙。会津藩、薩摩藩が、仲裁に入ったそう。

 

4月、大坂のイギリス公使パークスが、京都から敦賀へ旅行する。これに関して、京都では政治的駆け引きがあり、それに関連して、見廻組は、鷲尾邸の監視を命じられる。更に、慈野邸、正親町邸の監視も命じられる。

この頃、蒔田相模守は、見廻役の辞任を、幕府に申し出ていたよう。

5月8日、堀石見守が、奏者番に転役。後任には、岩田織部正が、見廻役並に任命される。

6月2日、蒔田相模守は、再度、辞任を申し入れ、6日に、辞任が認められる。

6月10日、相模守の後任に、4500石の旗本、小笠原弥八郎長遠を、見廻役に任命。

7月4日、小笠原弥八郎、江戸城に登城。河内守と改称。

7月26日、小笠原河内守、江戸を出発。入京日は、不明。

 

慶応3年(1867)、この頃、見廻組では、実力者を勤番先から譲り受けるという形で、組士を任命していたそう。つまり、腕利きの剣客をヘッドハンティングしていたということ。その中には、あの坂本龍馬暗殺に加わったと言われる今井信郎、渡辺篤、桂早之助らも居た。

逆に、多くの組士の転出もあったよう。多くの組士が江戸に下ったりもしているようですが、理由は、分からないということのよう。

 

8月14日、徳川慶喜の家臣、原市之進が、陸軍奉行配下の鈴木豊次郎、依田雄太郎によって暗殺される。

8月19日、新選組が、関係者3人を捕縛。この時、関係者が、見廻組の監視する鷲尾邸に出入りしていたことが発覚。

8月26日、見廻組は、慈野邸、正親町邸、鷲尾邸の警備を罷免される。

8月27日、見廻組は、二条邸と清所門の警備も解任される。

事実上、見廻組への謹慎処分です。

この時、見廻役、二人に、綱紀粛正の命令が発せられたようです。

また、この時、見廻組の編成も書かれていて、与頭(与頭勤方、与頭勤方並を含む)の下に、5人の肝煎が属し、その下に伍長が居て、与頭、一人につき、50人から60人ほどの小隊が編制されていたよう。

9月9日、御所警備への復帰のため、御所内への屯所の設立を武家伝秦に届け出る。

清所門前にあった見廻組の番所は、出なければならないが、結局、新たな屯所は、作られなかった。

 

10月3日、土佐藩が、幕府に大政奉還を建白。

この頃、見廻組は、御所内の警備を申し入れる。

10月14日、徳川慶喜、朝廷に大政奉還を奏聞する。

10月15日、大政奉還。

11月15日、坂本龍馬が、近江屋で暗殺される。実行犯は、佐々木只三郎、今井信郎、渡辺篤、桂早之助ら、7人。

同日、大久保利通、入京。

10月23日、薩摩藩兵、3千が入京し、相国寺に布陣。

10月28日、芸州藩兵、3百が入京。

11月26日、幕府が、見廻組に巡邏地域を指定。

12月1日、長州藩兵、8百が入京。

12月7日、幕府は、非常時に備えて、諸藩、見廻組に待機を命令。

12月8日、見廻組に御所内の警備を指示。

この日から翌日にかけての朝廷の会議で、幕府の廃止が決定される。王政復古。

 

 

この幕府の消滅によって、「京都見廻組」は、その役目を終えることになります。

しかし、この「京都見廻組」の組織自体は、すぐに消滅をしてしまう訳ではなく、その後も、鳥羽、伏見の戦いから、江戸への帰還と、見廻組の活動は続くことになる。

その歴史は、また、後日。