今朝は、曇り空でしたが、次第に、晴れて来ましたね。

 

 

沖合に停泊中の船。その左には、小さな漁船が、航行中ですね。

 

岸壁には、海上保安庁の巡視船が、先週から接岸中。

何をしているのでしょうね。

 

少し、余談。

 

先週のNHKの「歴史探偵」は、「桜田門外の変」でしたね。

井伊直弼が、鉄砲で撃たれ、重傷、または、即死したために、あっさりと首を取られたという話は、以前、どこかで見て、知っていました。

しかし、この「鉄砲」は、勝手に、「小銃」と思い込んでいたのですが、これが「拳銃」だったということは、この番組を見て、初めて知りました。

しかも、この「桜田門外の変」で、水戸浪士たちが使った拳銃は、水戸藩で作られた「国産品」だったそうですね。

まさか、幕末に、日本国内で、拳銃の製造が行われていたとは。

 

しかし、恐らく、小銃のように、大量生産された訳ではないのでしょう。

多くの歩兵が、小銃と共に、拳銃を携帯していたという話は、聞いたことがない。

また、拳銃を持って、撃ち合ったという話も聞かない。

 

この「幕末」から明治の初期にかけて、この「桜田門外の変」を始め、日本国内では「暗殺」が横行した。

これは、「武士」という存在が、「刀」を、常に、持ち歩いているということが関係をしているのではないかと想像するところです。

「命」というものが重要ではなかった時代、気に入らない人間が居れば、排除をすれば良いと考えるのは、自然な話。

そして、武士は、常に、刀を持っている。

刀で、相手を殺害すれば、簡単に、気に入らない人間を排除することが出来る。

しかも、「天誅」を名目にすれば、後ろめたさも無いでしょう。

 

さて、この「幕末」は、「武士」が、純粋に「剣士」としての真価を発揮した、唯一の時代だったのではないかと思います。

 

平安時代の末期に「武士」という存在が生まれることになる訳ですが、その頃、「武芸」と言えば、「馬」と「弓」を扱うことで、「刀」を使うことではなかった。

これは、恐らく、鎌倉時代を通じても、そうで、南北朝から室町時代にかけて、何らかの変化があったのだろうと思われますが、勉強不足で、分からない。

そして、戦国時代には、「鉄砲」が広まったことで、戦闘の様相が劇的に変化をし、戦場で「刀」を使うということは、まず、無かったのではないかと思われます。

 

では、「武士」と「刀」を結びつけたのは、何か。

 

さて、武器をしての「刀」を扱う技術として「剣術」があります。

この「剣術」というものが生まれたのは、鹿島神宮、香取神宮の神官が生み出したものが最初だということのよう。

これは「鹿島神道流」「香取神道流」と呼ばれる流派。

 

そして、この「鹿島」「香取」の剣術を学び、全国を回って名を挙げた、最初の「剣豪」と呼ばれるのが「塚原卜伝」です。

この塚原卜伝は、戦国時代の後期、「新当流」という流派を作り、「一つの太刀」という秘伝を、伊勢国司の北畠具教と、室町幕府第13代将軍、足利義輝に伝えたとか。

 

そして、この「剣術」に、画期的な変化をもたらしたのが、上泉信綱です。

上泉信綱の生み出した「新陰流」は、戦国末期、一大流派となる。

そして、この上泉信綱の高弟、柳生石舟斎が、徳川家康に見込まれ、柳生石舟斎の息子、柳生宗矩が、徳川将軍家兵法指南役に迎えられたことで、「新陰流」は、全国に広まることに。

ちなみに、柳生石舟斎の「新陰流」は「柳生新陰流」と呼ばれますが、この「柳生新陰流」が、「新陰流」の正統だという話。

また、この「新陰流」正統は、江戸の柳生宗矩ではなく、尾張藩の兵法指南役となった、弟の、柳生兵庫助に伝えられたという話も。

 

もう一人、同じ時期に、後世の剣術に大きな影響を与えることになる「一刀流」を生み出したのが、伊藤一刀斎です。

この伊藤一刀斎の「一刀流」を受け継いだのが、小野忠明という人物で、この小野忠明は、徳川幕府第二代将軍、徳川秀忠に見込まれ、兵法指南役となります。

 

江戸時代初期、この「新陰流」「一刀流」の他に、「馬庭念流」「中条流」、その他、数多くの「剣術」の流派が、世間に広まり、「武士」は「剣術」を学ぶというのが、常識として定着をしたのではないでしょうか。

つまり、「武士」=「刀」となったのは、江戸時代初期だろうと想像します。

 

しかし、江戸時代は、太平の時代。

合戦はなく、学んだ剣術をふるって、敵と戦う場面も無い。

剣術道場は、「他流試合」を禁止し、「剣術」は、形式だけのものになって行ったようですね。

 

江戸時代は、長い、太平の時代。

その中でも、当然、「剣術」に真剣に取り組む人は居た訳で、江戸時代も後期に入ると「一刀流中西派」の道場で、画期的な発明が生まれます。

それは、「防具」をつけて、実際に、竹刀を打ち合うという実戦的な稽古。

ここから、幕末期に向けて、剣術修行の隆盛が始まります。

ちなみに、上泉信綱の「新陰流」が、一大流派になった一因に「竹刀」の発明があります。

これもまた、より、実戦に近い稽古を行うためのもの。

やはり、修行、稽古に励む武士たちにとって、一般的だった「型」を学ぶ稽古よりも、実際に、相手と打ち合うことが出来る稽古は、魅力的だったのでしょう。

 

ちなみに、この「一刀流中西派」の中西道場では、優れた剣豪が、次々に誕生します。

その中でも、特に、幕末期の剣術に影響を与えたのが、「千葉周作」です。

この中西道場で頭角を現した千葉周作は、その後、「北辰一刀流」を生み出します。

この千葉周作の「北辰一刀流」は、幕末の武士に、絶大な影響を与えた流派。

 

この「北辰一刀流」は、剣術の上達システムを簡略化し、誰にでも、学びやすく、工夫をされた修行体系を持っていたそう。

そのため、絶大な人気を得ることになる。

 

幕末の三大流派と呼ばれるのは、この「北辰一刀流」「神道無念流」「鏡新明智流」の三つですが、この三つの流派は、武士たちの政治思想にも、大きな影響を与えることになる。

江戸のこれらの道場で、剣術の修行をする武士たちは、同時に、仲間たちと、その政治思想も話し合い影響を与え合った。

 

そして、ペリーの来航に始まる、「幕末」の時代。

 

この剣術道場で腕を磨いた「武士」たちが、実際に、世の中で、「刀」をふるい、人を殺害して行くことになる。

まずは、尊皇攘夷過激派の人たちが、日本に来ていた外国人たちを殺害する。

さらには、「開国派」「佐幕派」と見られる人たちを、殺害する。

つまり「暗殺」の横行です。

 

これに対して、幕府は、治安維持のために、「剣士」として「腕利き」の武士たちを、治安維持のために投入し、ここに、「刀」による「武士」の戦いが始まる。

つまり、「武士」が、「刀」を使う「剣士」としての価値を、発揮することになる。

 

その象徴が「新撰組」でしょう。

 

武士たちが、刀を持って、どのような戦いを繰り広げたのか。

新撰組の京都での歴史を見れば、よく分かる。

「武士」の象徴が「刀」なのだとしたら、この「幕末」という時代は、「武士」が、最も、「武士らしく」活躍をした時代ということになるのではないでしょうか。

 

新撰組に関しては、そのうち、書く機会もあるだろうと思いますが、ここでは、二つの事例を紹介します。

 

一つは、文久2年(1862)4月23日に起きた「寺田屋事件」。

 

伏見の寺田屋という旅館に、尊皇攘夷過激派のグループが集結。

このグループは、薩摩藩の島津久光の上洛に合わせ、挙兵討幕をするために集まっていたもの。

具体的には、佐幕派の関白、九条尚忠と、京都所司代、酒井忠義を暗殺する計画だったよう。

そして、その首を持って、島津久光に挙兵討幕を迫るという考えだったよう。

 

しかし、島津久光には、当然、討幕をする気はない。

そして、寺田屋に集まっている過激派が、暴発をするかもしれないという報告を聞いた久光は、側近を、次々と派遣して、説得を試みるが、ことごとく、失敗に終わる。

最終的に「上意討ち」をしても構わないという指示をして、腕利きの武士9人を寺田屋に派遣。

寺田屋での壮絶な斬り合いの末、事態は収束することになる。

 

もう一件は、文久元年(1861)5月28日に起きた「東禅寺事件」。

 

この頃、東禅寺は、イギリス公使館として使われていて、水戸脱藩の過激派浪士14人が、イギリス公使オールコックを殺害しようと、東禅寺を襲撃。

この時、幕府旗本や、郡山藩士、西尾藩士が、東禅寺の警部についていました。

過激派浪士は、その場で、3人が死亡し、逃走した浪士は、2人が、包囲されて、切腹、一人が、捕縛をされ、後に処刑されたそうです。

一方、警備側では、2人が死亡したそう。

 

ちなみに、この時、警備をしていた幕府旗本の中に、後に幕府歩兵「伝習隊」を率いて、大鳥圭介の元、戊辰戦争を戦った「本多幸七郎」が居たそうです。

警備の一員に選ばれたということは、本多幸七郎は、相当な剣の遣い手でもあったのでしょう。

ちなみに、将軍、徳川家茂の上洛にも、警備の旗本の一人として、同行したということ。

そして、幕府陸軍「伝習隊」の士官としても活躍をした訳で、なかなか、興味深いと思います。