肥前佐賀藩出身で、明治新政府の高官の一人「江藤新平」について、この本を読みました。

 

 

この本。

内容は、かなり雑然とした印象で、分かりづらい。

恐らく、「江藤新平」について、何も知らない人が、まず、最初に、この本を読むと、理解をするのは、なかなか、難しいのではないかと思われます。

 

さて、江藤新平と言えば、明治新政府の中にあって、日本という国家の「西洋化」を推し進めた人物として知られている。

このイメージは、司馬遼太郎の江藤新平を主人公にした「歳月」や、毛利敏彦の「江藤新平」によって、世間に広まったものだそう。

 

 

 

 

確かに、江藤新平は、早くから、議会の設置や、司法省の設置、法制度の充実を訴えていたようで、実際に、江藤は、その後、文部大輔(当時、文部卿は不在で、事実上、文部省のトップ)として、日本の学校制度、教育制度の西洋式の導入を決定し、司法省が設置されると、初代の司法卿として、全国への裁判所の設置を主導し、ナポレオン法典をモデルにした民法などの法制度の充実を推し進めることになる。

 

しかし、今回、読んだ「江藤新平」の著者は、江藤新平は、日本の「西洋化」を推し進めようとした訳ではなく、「国学」の思想に基づく、「天皇親政」「国家神道」による国家の確立を目指していたと言っています。

そして、欧米列強と肩を並べる国となった暁には、「尊皇攘夷」を実行し、日本から外国を徹底して排除をしようと考えていたようです。

当時、明治新政府に関わる人たちは、日本を、どのような国にしていくのか、多くの「提言書」を政府に提出をしている訳で、当然、江藤も、多くの提言書を書き、政府に提出をしている。

そして、江藤は、その思想を、明確に、その提言書で示しているということ。

 

個人的には、司馬遼太郎の小説や、毛利敏彦の本を読み、日本の「西洋化」を推し進めた江藤新平と、征韓論を唱え、「佐賀の乱」の首謀者として処刑された江藤新平のイメージが、どうしても重ならなかったのですが、江藤が「尊皇攘夷」を究極の目標にしていたというのなら、納得をすることが出来ます。

 

天保5年(1834)、江藤新平は、佐賀藩の下級藩士の家に生まれます。

父は、仕事に、あまり熱心ではなく、家計は困窮し、江藤は、藩校である弘道館にも通えず、ひたすら、本を読んで過ごしたということ。

そして、江藤が、ようやく、弘道館に通えるようになったのが、十六歳の時。

通常、藩士の子は、五、六歳から、弘道館に通うそうです。

江藤は、この弘道館で、大隈重信、副島種臣、大木喬任らと出会うことになります。

 

江藤が、弘道館に入学をしたのと同じ頃、枝吉神陽という人物が、江戸から戻り、弘道館の指南役となります。

この枝吉神陽が「国学者」で、江藤新平は、この枝吉神陽から、大きな影響を受けることになります。

そして、この枝吉神陽を中心に、江藤、大隈、大木、副島らが参加をした「国学」に基づく、「尊皇攘夷」集団である「義祭同盟」が結成されます。

当時、日本の各地で、この「義祭同盟」のような「尊皇攘夷」集団は、各地に存在し、例えば、長州藩では、吉田松陰を中心にした「松下村塾」のグループや、土佐藩では、武市瑞山を中心にした「土佐勤王党」が有名ですが、その参加者の多くが、後に、「尊皇攘夷」思想を捨て、日本の「西洋化」に賛同することになる訳ですが、江藤は、頑なに、「国学」「尊皇攘夷」思想を、持ち続けたよう。

 

江藤が、非常に強い「尊皇攘夷」思想を持っていたということは、佐賀藩士の中では、非常に珍しい「脱藩」を実行したことでも読み取れます。

文久2年(1862)6月、仲間である中野方蔵が獄死をしたことをきっかけに、江藤は、脱藩を決意。もっとも、この時の江藤の脱藩は、佐賀藩を見限った訳ではなく、佐賀藩を「尊皇攘夷」に導くために、外から働きかけようと考えた結果のようです。

江藤は、しばらく、京都で、他の尊皇攘夷思想の活動家と行動を共にし、活動をしますが、思うように事は進まず、9月には、帰藩。

江藤は、蟄居を命じられます。

 

慶応3年(1867)12月、大政奉還を受けて佐賀藩主、鍋島直大が、朝廷の命令によって上洛。江藤は、それに同行します。

鍋島直大が、京都に到着をしたのは、ようやく、慶応4年(1868)3月1日で、朝廷は、佐賀藩に、「徳川寄りではないか」という嫌疑を持たれたようですが、江藤は、その嫌疑の払拭に動くことになる。

そして、3月8日、江藤は、高知藩士の小笠原唯八と共に、関東に偵察に向かうことを三条実美から命じられる。

江藤が、江戸に入ったのは、江戸無血開城の後。

江戸城に残されていた幕府の書類の調査などに当たったそう。

明治2年(1869)1月、天皇が江戸に移り、新政府の機能も江戸に移される訳ですが、その頃、江藤も、佐賀藩士から、明治政府の役人に立場を変えることになります。

 

さて、徳川幕府が倒れてから、明治新政府が出来る訳ですが、その状況は、しばらく、かなり混沌とした中にあったようです。

明治新政府の大きな課題は、日本全土を、どのように「統一的」に統治をするかということ。

明治新政府の要人の中でも、それぞれに、構想の違いがあり、まさに、手探りのような状態で、新政府の制度の設立が進められていたようです。

その中で、江藤も、様々な提言書を提出している訳ですが、当然、それは採用される訳もない。

 

大きな問題は、日本全国で、それぞれに「自治」を担当していた「藩」をどうするのか。

当面は、この藩の立て直しを目指して、それぞれに活動をしていたようで、江藤もまた、佐賀藩の立て直しに、一度、佐賀藩に戻ることになる。

しかし、江藤の改革に不満を持つ藩士も居たようで、江藤は、江戸、東京に戻った明治2年(1869)12月20日、佐賀藩邸を訪れた後、佐賀藩の足軽、六人に襲撃され、傷を負うことに。

 

明治2年(1869)10月、東京に戻った江藤は、「弁事」に任命されます。

この弁事とは、太政官の庶務を取り扱う仕事だそう。

つまり、行政の事務処理です。

江藤は、そこで、次々と沸き起こる、様々な問題に取り組むことになる。

 

明治3年(1870)2月、「制度取調掛」に任命される。

これは、政治機構改革を提案する役職だそうで、江藤は、多くの意見書を書きますが、江藤は、ここで「議会制」や「司法制度」の確立を訴えたことで「西洋主義者」と今では認識されていますが、江藤の目指したものは「君主独裁」による国家で、あくまでも、「尊皇攘夷」だと著者は、書いています。

つまり、江藤の考えた「西洋化」とは、あくまでも「神道」に基づく「天皇親政」に反しない程度で、と、言う制約がつくという話。

江藤の考えでは、「西洋」のシステムは、「神道」に基づく「天皇親政」を強化する手段に過ぎなかったということ。

 

11月、江藤の提案で、天皇の前で「国法会議」が開かれます。

この「国法」とは「憲法」のことで、「君主独裁」による国体が議論されていたそうですが、実質的に、未だ「藩」をどうするのかという問題が解決出来ず、次第に、会議は行われなくなったということ。

ここで、大久保利通が中心となり、「藩」の廃止と、明治政府の強化に向けて動くことになる。

実は、この「明治政府の強化」にも、政府内部で意見、構想の対立があり、大きく分ければ、大久保利通と木戸孝允の構想の違いが原因となる。

特に、「大蔵省」の権限をどうするのか。

財政のみならず、地方の行政や、司法まで管轄する強大な大蔵省。

この大蔵省の扱いが、大きなポイントになっていたよう。

 

明治4年(1871)7月、「廃藩置県」が断行される。

これは、ほぼ、政府による「クーデター」のようなものだったそうですね。

この「廃藩置県」によって、明治政府は、日本全国に「統一的」な統治を及ぼすことが可能になる。

ようやく、ここから、明治政府による全国統治が始まったということ。

 

7月18日、江藤は、同日に成立した「文部省」の「文部大輔」に就任。

文部卿が不在なので、江藤は、この時、文部省のトップということになる。

この時、江藤は、「洋学」による文部行政の実施を決めますが、同時に、江藤は、「キリスト教」の徹底した排除も訴えていたそうです。

一見、矛盾をしているように思えますが、どうも江藤は、「神祇省」による国学、神道による教育も想定をしてたようですね。

つまり、文部省、学校では、純粋に「学問」だけを教え、日本人の精神に関わる「国学」「神道」は、「神祇省」で扱うべきものという考えがあったのでしょう。

 

ちなみに、この時、江藤を文部大輔に推薦をしたのは、文部省の前身である「大学」に居た加藤弘之という人物です。

この加藤弘之は、「明六社」のメンバーでもあり、幕府の蕃書調所にも所属していた洋学者で、後の東京大学初代総長です。

 

日本の文教政策に道筋をつけた江藤は、文部大輔在任、わずか17日で、「左院」の一等議官に移動します。

その六日後には、副議長に就任。

この時、まだ、議長は未定で、江藤は、実質的に、左院のトップとなる。

この「左院」とは、立法府で、左院の人事も、江藤が主導。

 

江藤は、この左院の中に、「議院」の設置を構想します。

議院は、「上院」と「下院」の二つで構成。

江藤の、この構想もまた、日本の「西洋化」を目指すものとして語られることが多いですが、それには、検討の必要があるということ。

著者の考えでは、江藤は、この「左院」を強化し、各省、特に、大蔵省の強大な権限を削ぎ、政府の最高機関である「正院」の力を強めるという判断があったのだろうということのよう。

しかし、江藤の、この構想は、停滞し、失敗に終わったよう。

 

この頃、左院では、「立国憲議」についての議論が行われていたそうです。

これは、「憲法の制定」と「下議院設立」に関する議論です。

江藤は「憲法」に関して「古来国家の習俗に基づく」法典であると考えていたそうです。

この議論もまた、様々な意見の対立で、容易に、まとまる訳もない。

 

3月14日、江藤は、左院副議長のまま、「教部省御用掛」を兼任することになる。

この「教部省」は、「神祇省」を廃しし、この日、新たに作られた省。

この「教部省」は、キリスト教の排斥と、神道と仏教による民衆の強化を目的としていたようで、江藤は、その体系化を進めますが、これも、上手く行かなかったよう。

 

ちなみに、江藤が、頑なにキリスト教の排除を主張し続けたのは、「国体」に関わるという考えがあったからということのよう。

つまり、キリスト教の思想から、「共和政治」の考えが国民の中に生まれ、天皇の権威に影響を与えるという懸念が、江藤にはあったようです。

 

明治4年(1871)11月12日、岩倉使節団が、横浜を出港。

 

明治5年(1872)4月25日、江藤は、司法卿に任命される。

その直後、江藤にも欧州視察が命じられましたが、これは、三条実美の反対で、中止になる。

 

この司法省が設置されたのは、明治4年(1871)7月9日、司法卿は空席で、トップの司法大輔に任命されたのは、佐々木高行。

この頃、司法省の課題になっていたのは、法制度の確立、近代法制の整備と、全国の裁判所の設置。

佐々木は、裁判所の設置よりも、法制度の確立を優先したそう。

この時、司法省が法律のモデルにしたのは、当然、「西洋法」で、実は、これには、「不平等条約の改正」の問題が関わっていたそうですが、それは、また、別の話。

つまり、江藤が、司法卿になる前から、西洋法による法整備は、着々と、進められていたということ。

 

もっとも、江藤と佐々木の法律についての構想は違っていた。

江藤が、西洋法に基づいて成立を認めたのは「民法」だけ、と、言うことのようです。

江藤は、司法卿になった直後、「民法会議」を設置し、民法の編纂を進める。

そもそも、日本には「民法」に関するものが存在せず、この部分は「西洋法」を模倣するしか手段が無かったということ。

ちなみに、「民法」は「フランス法」を元にしたのですが、「刑法」は「中国法」を元にして編纂が進められたそう。

ちなみに、江藤の後に司法卿になった大木高任は、「フランス法」を、そのまま「民法」にするのではなく、日本の実情に合わせた「民法」の編纂を進めることになる。

また、大木は、逆に、「刑法」の編纂に、西洋法を参考にしたそうです。

 

そして、この佐々木高行は、岩倉使節団に同行し、司法省内部で、佐々木の方針に反対し、裁判所の設置を急ぐべきだと考える人たちが、「江藤を司法卿にしてくれ」と申し出ることになる。

江藤もまた、司法制度の確立と、全国の裁判所の設置を、早くから主張していたため、江藤の司法卿就任後、全国の裁判所の設置は、急速に進むことになる。

 

実は、この裁判所の全国への設置は、それまで、地方の行政、司法を管轄していた大蔵省の権限の縮小を目指したものでもあり、当然、大蔵省と、司法省は対立をすることになる。

この時、江藤は、当時、横行していた「地方官」の横暴を、行政裁判によって処理することで、大蔵省との対立の緩和を図ったということのよう。

この中央政府の言うことを聞かず、勝手に、強権的な振る舞いをする地方官の存在には、大蔵省も、頭を悩ませていたそうです。

そして、この事例を持って、江藤が、「民衆の行政訴訟を認め、市民社会の実現のきっかけになった」と評価をされることが多いようですが、これは、本来、中央政府の権力を強め、地方の支配を強めるために行われたことだと著者は書いています。

 

そして、この頃、日本は、深刻な財政難だったようです。

この財政を握っているのは大蔵省で、お金に関する全てを、大蔵省が決定するこになっていた。

戊辰戦争での戦費に加え、国家の近代化にも、莫大なお金がかかる訳で、各省から申請される予算も、当然、そのまま、認められる訳がない。

各省では、予算が認められない大蔵省を非難することになる訳ですが、その中でも、司法省、江藤は、かなり、強硬な抗議を行ったそう。

 

そして、江藤は、明治6年(1873)1月、抗議の辞表を提出。

大蔵省と司法省の対立は、激化することになる。

この時、大蔵省では、井上馨、渋沢栄一らが、大蔵省の巻き返しに奔走しますが、上手く行かず、大蔵省を去ることになる。

そして、その後、大蔵省の中心人物になったのが、大隈重信です。

そして、予算編成が、大蔵省から、「正院」に移されたことで、この大蔵省、司法省の対立は、収束することになる。

 

この「司法卿」は、江藤新平を象徴する立場になっていますが、この江藤のイメージに、著者は、疑問を呈しています。

 

まず、江藤は「民衆の権利」を考慮していたのかという問題。

 

これは「芸娼妓解放令」が、それを象徴しているそうですが、これは、江藤個人の考えではなく、政府全体の意向として、進められたものだと、この本には書かれています。

 

そして、江藤が、「長州閥の不正を、厳しく、追及したのか」と言う問題。

 

具体的には「山城屋和助事件」「尾去沢銅山事件」「槇村正直拘留事件」の三つ。

 

「山城屋和助事件」では、「江藤南白」という江藤の死後に書かれた、江藤を顕彰する本に書かれた高木秀臣の証言があるだけで、確かな史料では、江藤が、この件に関与したとは確認できないそう。

 

「尾去銅山事件」では、この件が問題になるのは、江藤が、司法卿から参議に移動をした後の話のようで、江藤が、この件に関与したとは考えられないよう。

 

「槇村正直拘留事件」では、「江藤は、槇村の追及には消極的だった」という証言が残っているそうで、どうも、司法省と江藤は、意見を異にしていたのだろうということ。

 

つまり、江藤新平が「長州閥の不正を厳しく追及した」というイメージは、江藤を顕彰するために書かれた「江藤南白」によって作られたものだということのよう。

 

明治6年(1873)4月19日、江藤は、参議に就任。

そして、司法卿から参議に転身した江藤は、「内務省」の設立を考えていたそうですね。

内務省と言えば、大久保利通のイメージですが、宮島誠一郎や福岡孝弟も、内務省を構想していたそう。

 

明治6年(1873)9月、西郷隆盛を朝鮮に使節として派遣するのかどうかという問題が起きる。

実は、徳川幕府が倒れてから、朝鮮との外交は、かなり揉めていたそう。

なぜ、日本と朝鮮との外交が揉めたのかと言えば、それは、日本側が「尊皇攘夷」思想に基づき、「天皇」に対して、朝鮮が「朝貢」をするように強要をしたため、朝鮮が、それに反発。

日本と朝鮮は、断交状態になっていた。

 

その中で、「征韓論」が生まれることになる。

つまり、武力によって、無理矢理、朝鮮との外交を始めようというもの。

まず、参議、板垣退助が、釜山への軍隊の派遣を主張。

しかし、同じ参議の西郷隆盛は、それに反対。

西郷は、この時、自ら、朝鮮に使者として赴き、その時、朝鮮側は、自分を殺害するだろうから、それを口実に、軍隊を送るべきだという意見を述べたよう。

この頃、西郷は、体調不良に悩まされ、「死」を考えることが多かったようですね。

そして、この「征韓論」に、不平士族の不満を向けようという意図もあったよう。

 

この時、参議、江藤新平が「征韓論」に同意したのは、個人的には、どうも、よく分からなかった部分。

日本の「西洋化」に邁進し、日本の近代化に力を注いでいたはずの江藤が、なぜ、「征韓論」に同意をすることになったのか。

これは、この本の主張する通り、江藤が「国学」に基づく「尊皇攘夷」思想の持ち主だったとすれば、納得が出来る。

江藤にとって、日本は、「天皇」が支配をする「神の国」であり、それに従わない朝鮮が討伐の対象になるのは、当たり前の話。

 

西郷を使節として朝鮮に派遣をするという話は、岩倉使節団の帰国によって、揉めに揉めることになる。

大きな混乱の中で、一度は、派遣が決定したものの、それを、何としても阻止したい大久保利通は、岩倉具視と共に、謀略によって天皇の支持を得て、派遣決定を却下。

西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎の五人は、参議を辞め、政府を去ることになる。

いわゆる「明治六年の政変」です。

 

10月25日、他の人たちと共に参議を辞めた江藤は、明治7年(1874)1月12日、副島種臣らと政治結社「愛国党」を結成。

1月17日、板垣退助ら、他の元参議と共に、「民選議院設立建白書」の提出に参加。

1月18日、江藤は、佐賀に向かいます。

実は、これ以前、佐賀の「征韓党」の党首になって欲しいという要請が、江藤の元に来ていた。

この時、木戸孝允、土方久元は、江藤の将来を憂慮し、使者をもって江藤を追ったが、間に合わなかったそう。

 

1月下旬、江藤は、佐賀に入ったと思われる。

佐賀では、不平士族たちが、「征韓党」「憂国党」を作り、政府による支配と激しく対立をしていました。

不平士族たちに牛耳られていた佐賀県庁では、初代「内務卿」に就任した大久保利通の統制に激しく反発。

2月1日、憂国党のメンバーが、政府の官金を強奪するという事件が起きます。

2月4日、不平士族の鎮圧を目指した大久保は、岩村高俊を権令に任命し、陸軍兵士と共に佐賀に赴任することを命じます。

2月9日、大久保は、反乱鎮圧のための全権を与えられ、東京を出発。

2月13日、江藤は、療養をしていた長崎から佐賀に戻り、協議の末、挙兵を決意。

2月15日、岩村高俊が、県庁に入ると、憂国党、征韓党の士族たちが、県庁を襲撃。「佐賀の乱」が勃発します。

この時、反乱に加わった士族は、1万2千に及んだということ。

2月19日、大久保は、福岡に到着。東京から率いた陸軍兵士と、熊本鎮台の陸軍兵士、更に、周辺の士族を徴募して、政府軍を編成。

2月22日、政府軍は、本格的な攻撃を開始。

3月1日、「佐賀の乱」は、鎮圧されます。

 

江藤は、征韓党幹部と共に、2月23日、鹿児島に向かいます。

これは、西郷隆盛に会って、協力を仰ぐためだったのですが、西郷は、それを拒否する。

江藤は、更に、桐野利秋と面会。

桐野は、江藤に、鹿児島に留まるように説得をしますが、江藤は、東京に向かい、参議に弁明をすることを決意する。

江藤は、海路、愛媛に渡り、高知に入る。

高知でも、知り合いに支援を求めますが、拒否される。

そして、3月29日、高知県安芸郡東洋町の民家で捕縛され、江藤は、佐賀に送られることに。

 

4月8日、江藤の裁判が行われる。

この時、江藤を裁いたのは、江藤を司法卿に推薦した河野敏鎌という人物。

この裁判で、江藤の陳述は、「曖昧で、何を言っているのか、よく分からない」という印象だったという記録が残っているそう。

4月18日、江藤は、士族籍からの除籍と、梟首が決定。

同日、刑が執行され、江藤は、死ぬことになる。

 

以上が、江藤新平の大まかな事績です。

 

確かに、司馬遼太郎の「歳月」や、毛利敏彦の「江藤新平」に描かれた江藤新平像とは、かなり違う印象を持ったところ。

 

幕末期、多くの人が「尊皇攘夷」思想に染まり、それが、徳川幕府を倒す原動力になった訳ですが、その経緯の中で、多くの人たちが、この「尊皇攘夷」思想を捨て、日本の「西洋化」「近代化」を目指す訳ですが、江藤新平は、どうも、頑なに、この「尊皇攘夷」思想を持ち続けたようです。

もっとも、江藤は、この「尊皇攘夷」を実行するためには、欧米と並ぶ力を持つ国家を作らなければならないという信念を持っていて、そのために必要だと思えるものは、西洋のものでも、躊躇無く取り入れる柔軟性もあった。

そのために、江藤新平と言えば、先進的な考えの持ち主で、日本の「西洋化」に影響を与えた人物というイメージを持たれるようになったのでしょう。

 

個人的には、「司法卿」の江藤新平と、「佐賀の乱」の江藤新平のイメージの矛盾が、これまで、どうも解決できなかったのですが、この本で、一応、納得の出来たところです。