今度は「明石掃部」について、同じ本から。

 

 

明石掃部については、「関ヶ原の合戦」で、宇喜多軍の指揮を取った人物、そして、「大坂の陣」で、真田信繁、後藤又兵衛らと共に、一軍の将として戦った人物として有名ですが、では、どういう人物なのかと言えば、詳しく知っている人は、少ないのかも。

 

さて、そもそも「明石氏」は、播磨国明石郡明石郷を本貫地とする一族です。

戦国時代に、その明石氏の一族の中に、備前国に移住する人たちが居て、「備前明石氏」となる。

この備前明石氏は、備前国の守護代である浦上氏の被官となったようです。

しかし、戦国時代、備前国では、急速に勢力を拡大した宇喜多直家によって、浦上氏の当主、浦上宗景が、本拠地である天神山城を、宇喜多直家によって落とされ、没落をすることになる。

 

どうも、備前明石氏は、この宇喜多直家による天神山城の攻撃の最中に、浦上氏を離れ、宇喜多氏に帰属をすることを決めたようです。

そして、この時、備前明石氏の当主だったのが「明石行雄」という人物。

一般的には、「景親」という名前で知られているようですが、これは、間違いです。

同時代史料には、全て、「行雄」と書かれているそう。

 

さて、この明石行雄は、天正10年(1583)の段階で、従五位下の「諸大夫」に叙されていたそう。

当時、「伊予守」も称していて、これは、関白、豊臣秀吉から正規のルートで任命されたものと考えられ、この時、同じく、宇喜多家家臣の中で、叙任されていたのが長船貞親のみということ。

この頃、明石行雄の立場を「客分」と記した史料もあり、宇喜多家重臣の中では、一線を画していたとも考えられるということ。

 

明石掃部は、文禄5年(1596)以前、この明石行雄から、家督を継いだと考えられますが、二人の関係は、史料からは、明確ではないそう。

しかし、やはり、明石掃部は、明石行雄の息子と考えられるようです。

ちなみに、明石掃部は「全登」という名前が有名ですが、これも、誤りで、後世につけられたものでしょう。

明石掃部自身が「守重」と名前を記した書状があるそうですが、これは後世に書かれた「偽書」である可能性が高いそう。つまり、名前は、不明ということのようです。

明石掃部は、磐梨郡保木城を、居城として、明石行雄から受け継いだとも言われますが、確かでは無いということ。

 

文禄元年(1592)4月に始まった、第一次朝鮮出兵には、明石掃部が従軍していた宇喜多軍の一員として従軍していた可能性が高いそうですが、慶長2年6月の第二次朝鮮出兵に、明石掃部が従軍していたのかどうかは、不明だということ。

 

明石掃部の知行高は、文禄3年(1594)には、1万石、慶長3年に1000石、同年、美作国山内に9610石が加増される。合計、3万3110石。

明石掃部の宇喜多家内での序列は、宇喜多家の政治を担う、岡氏、戸川氏、長船氏に次ぐということ。

ちなみに、岡氏、戸川氏、長船氏、明石氏、花房氏と序列は続きますが、この花房秀成は、宇喜多家と豊臣秀吉の両属のような関係にあったようです。

 

明石掃部の備前明石氏は、宇喜多家の中にあって、軍事的に宇喜多家に従属をするものの、他の家臣たちからは半ば独立したような立場にあり、宇喜多家領国の支配に主体的に関与せず、豊臣政権による大名統制を受けることもない立場だったよう。

つまり「客分」です。

 

ちなみに、明石掃部は、キリスト教に入信をしたことでも有名。

そのため、キリスト教宣教師の記録に、その行動が、色々と記されているそうです。

明石掃部の入信のきっかけは、慶長元年(1596)、すでに入信をしていた浮田左京亮に誘われたことだそうです。

この浮田左京亮は、宇喜多忠家の息子で、後の坂崎直盛、あの千姫との逸話で、有名な人物。

そして、この時、明石掃部は、大坂城の惣構えの普請の監督役を務めていたそう。

 

明石掃部は、とても熱心なキリシタンになったようです。

洗礼名は「ドン・ジョアン」。

布教活動にも、とても熱心で、明石掃部の活動で、多くの人が、キリスト教に入信をしたそう。

慶長元年(1596)、サン・フェリペ号事件をきっかけに、豊臣秀吉が、キリスト教禁教令を再公布。10月12日、明石掃部は、浮田左京亮と共に、大坂の教会を訪れ、司祭二人に、堺への待避を進めている。

その後、すぐに、明石掃部は、岡山に行く。豊臣秀吉は、捕縛したキリシタン、26人を、長崎に送って処刑するのですが、宇喜多領内では、明石掃部が護送役を担ったと思われる。

明石掃部は、宇喜多領内での布教活動で、2千から3千の信徒を獲得したよう。

その中に、宇喜多家の重臣、岡越前守も居たようです。

 

そして、宇喜多家の中で「宇喜多騒動」が起こることになる。

慶長4年(1599)から翌年にかけて、当主の宇喜多秀家と、その側近が、宇喜多家重臣たちと激しく対立し、結果、多くの人材が、宇喜多家を去ることになる。

しかし、明石掃部は、この「宇喜多騒動」に、あまり関係が無かったようで、家中に留まった数少ない重臣の一人であり、宇喜多秀家の姉、または、妹を妻にしていたという立場から、宇喜多家領国の一切を、取り仕切ることを任されることになる。

 

この時期、明石掃部が、どのような領国経営を行ったのかは、よく分からないよう。

もっとも、「関ヶ原の合戦」までの時間は、あまり無く、ほぼ、何も出来なかったのかとも思うところ。

「宇喜多騒動」で、宇喜多家を離れた戸川達安は、徳川家康の東軍の一員として、明石掃部と書状のやり取りをしている。

戸川達安は、徳川家康の勝利を確信し、宇喜多秀家を寝返らせるよう明石掃部を誘っていますが、明石掃部は、それを拒否。

明石掃部は、宇喜多軍を率いて、西軍に参加をする訳ですが、別の本には、この時の宇喜多軍は、多くの重臣が「宇喜多騒動」で家中を去ったため、急遽、集められた傭兵が多かったのではないかと推測をしていました。

 

この「関ヶ原の合戦」で、西軍は敗北をする訳ですが、その時、宇喜多軍を率いる明石掃部は、東軍の黒田長政によって助命されたことが、いくつかの宣教師の史料から分かるそうです。

大坂に移った明石掃部は、数日、イエズス会士から歓待を受けたそう。

そして、明石掃部は、黒田長政によって召し抱えられ、黒田家の新たな領国である筑前国に移ることになる。

ちなみに、黒田長政が筑後国に入ったのは、慶長5年(1600)12月。

 

慶長6年(1601)6月、イエズス会の司教、司祭を訪問するために、明石掃部は、長崎を訪れる。

ここで、明石掃部は、キリスト教に出家をする意思を示したそうですが、イエズス会側は、「子供が、まだ、幼いこと」「現在、キリシタンに与えている恩恵が、与えられなくなること」を理由に、明石掃部の出家を許可しなかったそう。

明石掃部は、6月中、キリスト教の聖祭に、全て、参加。この頃、宇喜多秀家の姉、または、妹と思われる妻は、すでに、死去をしていたことが確認できるそう。明石掃部は、長崎で、熱心に、キリスト教徒としての生活を送っていたようです。

 

そして、この長崎滞在の最中、黒田長政の使者が来て、明石掃部は、所領の没収を伝えられる。

理由は、明石掃部が、多くのキリシタンを養っていることが徳川家康に知られると、問題になると考えたため。

黒田長政は、明石掃部の殺害を考えていたのですが、元キリシタンである父、黒田如水の配慮により、黒田惣右衛門(如水の異母弟)に預けられることになる。

別の話では、すでに死んでいると思われていた宇喜多秀家が、まだ生きているという噂があり、明石掃部が宇喜多秀家の家臣であったことが問題になると懸念をした黒田長政が所領の没収と、明石掃部の隠棲を指示。しかし、如水が、惣右衛門の元に移るように配慮をしたということ。

 

実は、明石掃部は、黒田長政に召し抱えられる時、知行地は、嫡男(10歳くらい)に与えて欲しいと願ったそう。

そして、この明石掃部の没収された領地は、そのまま、明石掃部の嫡男に与えられたと考えられるようです。

そして、明石掃部は、黒田惣右衛門の領地である筑紫国秋月に移ることに。

しかし、黒田惣右衛門が死去する以前、明石掃部は、秋月を去った可能性があるようです。

 

明石掃部は、この知行地の没収を機に、隠退し「道斎」と名乗ったようです。

また、没収された知行地は、嫡男ではなく、家来に受け継がれた可能性もあるよう。

 

筑紫国秋月を離れた明石掃部は、それから、どうしたのか。

1612年、明石掃部は、京都に居て、イエズス会から資金援助を受けたことが確認できるそうです。

この頃、江戸幕府によるキリシタンの追及は厳しく、明石掃部は、その取り締まりを、巧みに逃れていたのだろうということ。

 

そして、慶長19年(1614)、明石掃部は、真田信繁、後藤又兵衛、長宗我部盛親らと共に、大坂城に入る。

 

なぜ、明石掃部は、大坂城に入る決断をしたのか。

 

ここからは、個人的な推測です。

 

恐らく、明石掃部の大坂入城は、自分の意思というよりも、周囲のキリシタン仲間に押されて、と、言うことではなかったかと想像します。

徳川幕府は、国内のキリシタンに対して、厳しい、弾圧を始めていた。

明石掃部自身もまた、その探索を逃れ、信仰を続けていたのでしょう。

その中で、大坂城の豊臣秀頼と、江戸の徳川家康が対立を激化させ、大坂城が兵士を集めるという話を聞き、キリシタンたちが、かつて、宇喜多軍を率いて、関ヶ原で戦闘をした明石掃部に、「ぜひ、キリシタンのために戦って欲しい」と懇願し、大坂城に送り出したのではないでしょうか。

 

しかし、「大坂の陣」で、大坂方は敗れ、豊臣家は滅亡します。

 

明石掃部は、生死不明で、行方が分からなくなります。

徳川幕府は、明石掃部の徹底した捜索を行いますが、結局、行方不明。

 

個人的には、外国に逃れ、一人のキリスト教徒として、人生を全うしたのではないかと思いたい。

それが、明石掃部の望む道だったのではないでしょうかね。