今、高校野球、春の選抜大会が行われていますが、この「高校野球」で、「歴代、最高の投手は誰か」と言われれば、やはり、作新学院の「江川卓」ではないでしょうかね。

個人的に、僕が、野球というものに興味を持った時、すでに、江川は、プロ野球、巨人の投手だった。

高校時代に、凄い投手だったということは、聞いたことがありましたが、実際に、どのような投手だったのかは、全く、知らなかった。

そして、その江川卓の、高校時代の、とんでもない凄さを知ったのが、この漫画です。

 

 

 

 

この「実録・たかされ」は、高校時代から、巨人に入団をするまでの江川卓の人生を漫画にしたもの。

ちなみに、この漫画を描いたのは、「サラリーマン金太郎」や「硬派銀次郎」の作者、「本宮ひろ志」です。

 

高校時代の江川卓の、とんでもない実績を、ウィキペディアから紹介します。

 

高校一年。

 

1971年7月23日、第53回全国大会栃木県予選、準々決勝(烏山)で、完全試合。

しかし、準決勝(宇都宮商業)で、延長11回で降板し、後続投手が打たれて、甲子園出場は出来なかった。

 

第24回秋季関東地区大会栃木県予選、足利工業戦で、ノーヒットノーラン。

栃木県予選で優勝し、関東大会へ。

関東大会1回戦の前橋工業戦(群馬予選優勝校)で、4回まで、12個のアウトのうち、10を三振で取り、ボールがフェアグランドに転がったのがセイフティーバントの一回だけという圧倒的な投球を見せるが、5回の打席で、江川は頭部に死球を受け、退場。そのまま入院となる。

 

高校2年。

 

1972年、第54回全国大会栃木県予選、2回戦(大田原)でノーヒットノーラン、3回戦(石橋)で完全試合、4回戦(栃木工業)でノーヒットノーラン。

奪三振率、15.7という、圧倒的な力を見せつける。

しかし、4回戦の準決勝(小山)で、延長11回、サヨナラスクイズを決められ、0対1で敗戦。

この頃から、作新学院の江川卓は、全国的に名前が知られるようになる。

 

第25回秋季関東地区大会栃木県予選で優勝。

関東大会の準決勝で、銚子商業(千葉県大会優勝)を相手に、1安打20奪三振で完封。外野に飛んだボールは、二本だけだったということ。

決勝でも横浜を完封し、優勝。

この時の作新学院は、新チーム結成以来、練習試合を含め、23試合、負けなし。

江川は140イニング連続無失点。

 

高校3年。

 

1973年、第45回選抜大会。この春の選抜は、まさに江川のための大会となる。

1回戦、北陽を相手に、19奪三振で、完封。

2回戦、小倉南を相手に、7回10奪三振で、マウンドを譲る。

準々決勝、今治西を相手に、7回2死まで、14奪三振の完全試合ペースで、20奪三振で、完封。外野に飛んだ打球は、二本だけ。

準決勝、広島商業を相手に、対江川の作戦の術中にはまり、不運も重なって、1対2で敗戦。

この「春の選抜」で記録した、江川の60奪三振は、未だに、「春の選抜」での最多奪三振の記録だそう。

 

7月、第55回夏の甲子園大会栃木県予選。

2回戦(真岡工業)、3回戦(氏家)で、ノーヒットノーラン。

準々決勝(鹿沼商工)で、1安打完封。

準決勝(小山)で、1安打完封。

決勝(宇都宮東)で、ノーヒットノーラン。

 

そして、夏の甲子園。対戦相手は、徹底した江川対策を練って来る。

 

1回戦(柳川商業)、延長15回、作新学院は、2対1で、からくも勝利。

2回戦(銚子商業)、0対0で、延長戦に突入。試合途中から降り出した雨は、延長12回裏、銚子商業の攻撃の中で、激しくなり、江川は、制球を乱し、押し出しで、サヨナラ負けとなる。

 

江川が、甲子園で記録した奪三振率14.0は、甲子園通算80奪三振以上の投手の中では、断トツの数字だということ。

あの松坂大輔も、遙かに、上回っているということ。

 

作新学院時代の江川の公式戦での成績は、

「ノーヒットノーラン」9回、

「完全試合」2回、

36イニング連続無失点、

選抜大会における「60奪三振」「8者連続三振」、

ということ。

とんでもない数字です。

 

ちなみに、江川が、最も、投手として最高の状態にあったのは、高校2年の夏から、高校3年の春までということのようで、それ以降、投げすぎで、肩を痛め、力は、やや、低下をしたという話。

それでも、後に、プロ野球で、あれほどの成績を残したのですから、高校時代の江川が、どれほど凄い投手だったのか。

 

さて、江川卓と言えば、剛速球投手のイメージですが、今、YouTubeで、江川の投球を見ると、プロ野球の時のスピードガンの表示が、130キロ代後半から、140キロ代半ばくらいで、それほど速い訳ではない。

これは、一体、どういうことなのか。

昔のスピードガンは、計測が、十分に出来なかったのかとも思いますが、実際のところは、よく分からない。

 

しかし、江川が、優れた投手で、奪三振の多い投手だったことは事実。

 

なぜ、江川の球が、打てなかったのか。

 

ウィキペディアによると、江川は、投手にしては「指が短い」ということで、これは、変化球を投げるには不利のようですが、ボールに「バックスピン」をかけるには有利だったようですね。

更に、江川は、手首が、とても、柔軟だったようで、この「指の短さ」と「手首の柔軟さ」で、ボールに、とても良く「バックスピン」をかけられたということ。

この「バックスピン」の十分にかかった球は、他の投手の球に比べて、重力による落下が少ないということ。

恐らく、江川の投げる球は、打者にとっては、まさに「浮き上がる」ように見えたのではないでしょうか。

それが「剛速球」をイメージさせ、とても、打ちづらかったのだろうと思います。

 

江川が高校野球で活躍をした時代は、今のように、その投球を録画をして、研究をするということが出来なかったでしょうから、江川の研究をするには、実際に、試合を、現地で見るしか無かった訳で、対戦相手にとっては、とても、驚異だったと思います。

江川のような、まさに「圧倒的」な投手が、今後、登場をすることは、あるでしょうかね。