小川洋子さんの小説「博士の愛した数式」。
読んだのは、随分と昔ですが、とても、面白かったのを覚えています。
この小説は、第一回「本屋大賞」受賞作品だそうですね。
読んだ当時は、全然、知らなかった。
主人公は、「私」ですが、この「私」が、記憶が、80分しかもたない「博士」のところに、家政婦として行くところから始まる。
この「私」と「博士」と、「私」の息子「ルート」との、三人の生活と、心の触れ合いの物語。
さて、「博士」は、「記憶」が、80分しかもたない。
つまり、80分よりも昔のことは、記憶の中に残らない。
そのため、「博士」は、紙にメモをして、それを、自分に張ることで、「記憶」の代わりにしている。
なぜ、「記憶」に異常が生じるのかと言えば、外的要因や、内的要因により「脳」が、損傷したため、と、言うことになる。
「記憶」とは、その人の生きて来た「証」ですよね。
自分が、何者なのか。
自分が、自分自身であるためには、これまで、生きてきた「記憶」が必要です。
「記憶」が無いということは、自分が何者であるのか分からないということ。
これは、とても、不安なことなのではないでしょうかね。
また、架空の「記憶」を、その人に植え付ければ、その人は、架空の人生を、真実の自分だと思い込んでしまうことになる。
多くの人が体験をするかも知れない、最も、可能性のある「記憶」の障害が「認知症」でしょう。
以前、この本を読みました。
僕自身、この本を読んで「認知症」というものについて、大きな誤解をしていたことに気づかされました。
この本を読む以前、認知症になった人は、「自分は、何も分からないのだから、本人は、気楽で良いのではないか」と思っていましたが、それは、大きな間違いでした。
自分が、何かをやりたいのですが「出来ない」、そして、何かが知りたいと思うのですが「分からない」というのは、とても、大きな不安であり、恐怖です。
つまり、認知症の人は、常に、大きな「不安」と「恐怖」の中で、生活をしているということ。
もし、自分が、この先、認知症になったら、どうなるのか。
今から、不安でもあります。