平将門、藤原純友と来れば、「藤原秀郷」について、知らない訳には行かない。

しかし、この「藤原秀郷」については、世間の関心が薄いためか、また、史料が、極度に少ないということなのか、この「藤原秀郷」をテーマにした一般書というのは、ほぼ、無い。

恐らく、この本くらいなのではないでしょうか。

 

 

さて、「藤原秀郷」について。

 

まず、藤原秀郷とは、何者なのか。

父は、藤原村雄、母は、鳥取豊俊の娘。父も、母方の祖父も、下野国の国衙の官人ということになります。

そして、秀郷は、下野国国衙のある都賀郡で生まれたのだろうということ。

 

藤原不比等の次男、藤原房前は、「藤原北家」の祖となりますが、この藤原房前の五男が藤原魚名で、この藤原魚名の五男、藤原藤成が、下野国の大介職に任じられ、現地に下ったのが、藤原秀郷が、下野国に生まれるきっかけになります。

藤成は、現地の豪族、鳥取氏の娘との間に豊沢という子供をもうけます。この藤原豊沢は、父、藤成が、任期を終え、京に戻った後も、現地に残り、「少掾」、「押領使」を務めたということ。

藤原豊沢もまた、妻を、鳥取氏から迎え、村雄という子供をもうける。恐らく、この頃に、豪族、鳥取氏は、藤原氏に吸収されてしまったのではないかということ。

そして、恐らく、藤原村雄の時代には、周辺豪族を支配下に収め、下野国の南部一帯に多くの私営田を持ち、大きな権力を持つようになったと考えられる。

この藤原村雄は、豪族、鹿島氏から妻を迎え、その間に生まれたのが、藤原秀郷です。

以上が、藤原秀郷が、下野国に、大きな力を持つ豪族になった経緯です。

 

下野国で、大きな勢力を持つようになった藤原氏は、国衙の軍事部門を担当していたと考えられる。

藤原秀郷が、いつ生まれたのかというのは、分からないということですが、平将門を討った時には、壮年、または、老年だったと考えられるそう。

この藤原秀郷が、史料に最初に登場するのは「日本紀略」の延喜16年(916)8月12日、「罪人、藤原秀郷、他18人を配流にすることを、国司に命じる」というもの。

つまり、この頃、藤原秀郷は、国司、国衙に反抗をする「罪人」だったということ。

下野国で、藤原氏は、群盗鎮圧の軍事力を行使する立場であったのですが、実質的には、群盗たちを支配下に収め、自身の実力を蓄えて行ったのだろうということ。そして、強大な力を持った藤原秀郷は、国衙、国司に反抗する態度を取るようにもなって来る。

延長7年(929)にもまた、下野国から朝廷に、藤原秀郷の濫行の報告があり、下野国と周辺諸国から、兵士を差し向けることを指示した官符が作成されているそうです。

恐らく、この頃の藤原秀郷は、国司、国衙にとって、なかなか、厄介な問題を起こす危険人物でもあったのでしょう。

もっとも、藤原秀郷の配流が実行されることは無かったようですし、実際に、周辺諸国から兵士が差し向けられたかどうかは分かりませんが、藤原秀郷は、その力を失うことは無かった。これは、藤原秀郷の中央権門との繋がりが考えられるということ。

 

天慶3年(940)1月11日、朝廷は、平将門追討の官符を、諸国に下す。

14日、朝廷は、東国の軍事的実力者8人を「掾」に起用。この中に、藤原秀郷も含まれていたと考えられる。彼らは、「追捕凶賊使」「押領使」に任命される。

2月1日、下野国に侵出して来た平将門の先鋒軍を、打ち破る。

2月13日、平将門軍の石井の営所を攻撃。

2月14日、藤原秀郷、平貞盛軍が、平将門を討ち取る。

3月5日、藤原秀郷から、平将門を討ち取ったという報告が、京に届く。

3月25日、平将門の首を持った藤原秀郷の使者が、京に到着。将門の首は、獄門にかけられる。

藤原秀郷は、この功績により「従四位下」「下野守」に任命される。この「従四位下」というのは、破格の待遇だったということ。

ちなみに、それ以前、「六位」だったことが、確認されるということ。

 

藤原秀郷は、「下野守」の後、「武蔵守」にも任命されたことが確認される。

平貞盛が、京に上り、中央軍事貴族として活動を始めるのに対して、藤原秀郷が、京に登った形跡はない。

天暦元年(947)閏7月24日、藤原秀郷が、権中納言の源高明を通じて、平将門の兄弟が謀反を起こそうとしていると朝廷に奏上している記録があり、これが、史料に現れる最後だということ。

 

藤原秀郷の子、千晴が、京の登り、活動を始めることになる。

しかし、この藤原千晴は、安和2年(969)3月25日、息子の久頼、及び、隋兵らと共に、検非違使である源満季(源満仲の弟)によって捕縛され、その後、隠岐島に配流されることになります。

これは、左大臣、源高明が失脚をした「安和の変」の一環と考えられるということ。

つまり、千晴は、父、秀郷と同じく、源高明に仕えていたと考えられる。

これは、清和源氏の源満仲と、秀郷流藤原氏の藤原千晴の軍事貴族の勢力争いの一環とも考えられるよう。

藤原千晴の失脚によって、秀郷流藤原氏の代表になるのは、弟の千常です。

平将門の乱の平定によって、関東が平穏になったのかと言えば、そうではなく、地方軍事貴族たちの抗争は、延々と続くことになります。

 

さて、藤原秀郷は、「鎮守府将軍」にも任命されたと考えられています。

この「鎮守府将軍」は、関東で活躍をする軍事貴族にとっては、非常に、栄誉ある、そして、実利もある、重要な役職だったそう。

史料によって、秀郷流藤原氏が鎮守府将軍に任命されたのが確認できるのは、千常の子、文脩からということになるようです。

そして、文脩の子、兼光、兼光の子、頼行と、秀郷流藤原氏は、代々、鎮守府将軍に任命されて行くことになる。

 

藤原文脩、文脩の子、文行と、京で武者として活動をします。ちなみに、この頃の権力者が、藤原道長です。

藤原文行の甥、頼行は、近衛府の将監に任じられたのが確認できる。

軍事貴族たちは、京と地方を、頻繁に、行き来していたそうです。

そして、藤原頼行もまた、治安2年(1022)、鎮守府将軍に任命される。

ちなみに、この頃、まだ「軍事貴族」が、官職と関係なく、軍事的な目的で動員されることは希だったということ。これは、一般の貴族と軍事貴族の区別が、まだ、明確ではなかったということだそうです。

もっとも、対馬や肥前、壱岐の「守」や、太宰府の官人には、外寇に備えて、名のある軍事貴族が配置されることが多かったということ。

 

藤原兼光、頼行と続いた系統は、長元3年(1030)に関東で起こった「平忠常の乱」で、平忠常に味方をした形跡があるようで、その後、京に復帰することなく、関東に土着をしたようです。

 

藤原文行の系統は、京での活動を続け、摂関家の「家人」としての立場を続けます。

この藤原文行の子孫、藤原季清の時に、白河院の武者所に居た時に、「院北面」に加えられたそう。つまり「北面の武士」です。

この藤原季清は、紀伊国田中庄、池田庄に拠点を置き、豊かな経済力を持っていたよう。そして、この季清の系統は「佐藤」を名乗ることになります。

この紀伊佐藤氏は、秀郷流藤原氏の「都の武者」としての嫡流と見なされたそう。

そして、この紀伊佐藤氏の中から、あの有名な佐藤義清、つまり「西行」が登場することになる。

 

藤原秀郷を祖とする「武芸故実」というものがあったそうです。

これは、いわば、武士が身につけるべき「武芸」のお手本のようなもの。

もっとも、それは、藤原秀郷が編み出し、受け継がれたというものではなく、この「武芸」というものを生み出したのは、京の「近衛府」という部署に所属をする下級役人たちだったようです。つまり「武芸」は、京で生まれ、磨かれたということ。

この場合の「武芸」とは「馬」と「弓」の扱いということ。

佐藤義清、つまり「西行」は、この秀郷流の武芸故実を受け継ぐ、第一人者として、評判が高かったようです。

 

ちなみに、関東で、秀郷流藤原氏の嫡流と考えられていたのは「藤姓足利氏」だったそうです。

この「藤姓足利氏」は、下野国、上野国に、広く、勢力を持っていたよう。

しかし、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝は、「小山氏」を引き立て、この「小山氏」が、秀郷流藤原氏の嫡流を自認するようになる。

ちなみに、奥州藤原氏もまた、秀郷流藤原氏の一族で、藤原秀衡は、鎮守府将軍にも任命されることに。

藤原清衡の父、藤原経清は、藤原兼光の孫に当たるよう。

 

この秀郷流の「武芸故実」と、秀郷流藤原氏が、代々、勤めてきた「鎮守府将軍」の権威は、武家の棟梁を目指す源頼朝にとっては、何とか、克服をしなければならないものだったようです。

つまり、藤原秀郷を祖とする「秀郷流藤原氏」の影響力は、平安時代の末頃まで、かなり大きなものだったということなのでしょう。

 

今となっては、「桓武平氏」「清和源氏」に比べて、影の薄い印象の「秀郷流藤原氏」ですが、かつては、平氏、源氏に、勝るとも劣らない存在感を持って、武士の社会に影響を与えていたということです。