蝦夷地と、いわゆる「和人」との関わりについて、この本から。

 

 

この本。

基本的に、武田信広を祖とする「蠣崎氏」、後の「松前氏」の歴史を中心にした本なのですが、この武田信広登場以前の「和人」と「蝦夷地」との関わりについての歴史も、詳しく、書かれていて、なかなか、面白いので、少し、紹介をしたいと思います。

 

そもそも、蝦夷地に和人が住むようになったのは、いつ頃からなのか。

それは、どうも、平安時代の末期の辺りから、と、言うことになるようです。

そして、鎌倉時代には、罪人の流刑地として、蝦夷地が使われても居たようですね。

もっとも、和人が、主に、住んでいたのは、津軽海峡を挟んだ、蝦夷地の最南端の近辺ということになる。

しかし、蝦夷地の奥地に入り込んで、アイヌの人たちと一緒に生活をしていた和人も居たことが、遺跡の調査から分かっているということ。

 

蝦夷地の南端、函館や松前の辺りに、和人たちが住んでいた訳ですが、彼らの有力者が拠点にしたのが「館」と呼ばれる場所です。

ちなみに、今の「函館」は、以前は「箱館」と呼ばれ、これは、河野氏が築いた「館」が、箱形をしていたのが名前の由来だそう。

ちなみに、この、和人の多く住む地域の中で、和人と共に生活をするアイヌの人たちも居たそうです。

つまり、蝦夷地は、和人とアイヌの人たちの雑居状態にあったということ。

 

さて、鎌倉時代の初めに、奥州藤原氏が滅亡をする訳ですが、その後、今の青森県の辺りに勢力を持った「安藤(安東)氏」が、蝦夷地の和人の支配を、鎌倉幕府から任されることになったそうです。

この安藤氏は、出自が、よく分からないのですが、系図では「前九年の役」で滅びた安部貞任の子孫を自称しているそう。

安藤氏の支配領域は、津軽地方の日本海側と、下北半島の先端辺りにあったと考えられるそうです。

 

文永5年(1268)、蝦夷(恐らくアイヌ)の反乱が起こり、当時の安藤氏の当主が、戦死をしているそう。

元応2年(1391)、出羽国で、蝦夷が反乱。これは、安藤氏の前当主だった「五郎家」と、現当主の「又太郎家」の内紛が、影響をしている可能性があるということ。

元亨2年(1322)、安藤又太郎季長と、安藤五郎三郎季久という従兄弟間での嫡流争いが健在化。幕府は、「蝦夷代官職」だった当主の又太郎を更迭し、五郎三郎を任命しますが、又太郎、五郎三郎は、ついに武力衝突。

嘉暦元年(1328)、幕府は、軍勢を派遣し、又太郎を捕縛しますが、更に、戦乱は続き、翌年に、ようやく和談が成ったということ。

 

この安藤氏は、津軽の「外ヶ浜」や「十三湊」での交易で、莫大な利益を上げていたと考えられるそうです。

特に、十三湊は、大規模な港湾都市で、九州の博多にも匹敵する都市だったということ。

 

鎌倉幕府滅亡の時には、安藤氏は、後醍醐天皇の側につき、引き続き「東夷成敗権」を認められることになる。

南北朝の戦いの時には、安藤氏は、北朝側につく。

応永元年(1394)、「応永の北海騒乱」と呼ばれる蝦夷の反乱が起こり、安藤康季、鹿季が、これを鎮圧。

この頃、安藤氏は、大きく三つの家に分かれたということ。その中で「下国家」「湊家」が、主流となる。本家は、下国家となりますが、湊家は、独自に足利将軍家と主従関係を結んだそうで、安藤氏は、二つに分裂をしたと考えられる。

 

室町時代には、今の岩手県の辺りに勢力を置いた「南部氏」が台頭し、安藤氏と、東北北部の覇権を争うことになります。

そして、南部氏は、安藤氏を、次第に圧倒。

嘉吉2年(1442)、南部氏は、十三湊に攻め込み、陥落させます。下国安藤氏は、完全に没落。安藤義季の自害を持って、断絶します。

 

南部氏は、安藤師季(政季)を、傀儡当主として、安藤氏を存続させます。

しかし、師季は、南部氏の傀儡であることを不満に思ったのか、享徳3年(1454)、安藤氏の支配下にあった蝦夷地に逃亡します。

 

師季は、蝦夷地に渡ると、和人の住む蝦夷地南端地域で、「上国守護」「松前守護」「下国守護」の三人を任命。地域を三つに分けて支配を命じることになります。これを「三守護体制」と呼びます。

 

康正2年(1465)、師季は、出羽国小鹿島に上陸し、南部氏に対して、反抗を始めます。

師季は、湊家の安藤氏とも協力。同時期に、下北では「蠣崎蔵人の乱」も勃発します。

師季は、次第に、南部氏を押し返し、足利将軍の義政から偏諱を受け「政季」と改名。

しかし、政季は、家臣の裏切りにあって自害。

子の忠季が、後を継ぎますが、津軽の奪還に失敗。

明応4年(1495)、忠季は、今の秋田県の檜山城に拠点を置き、南部氏と和睦をすることになります。

この「檜山安藤氏」は、引き続き、蝦夷地の支配権を認められることになる。

 

さて、安藤師季と共に、蝦夷地に渡った人物の中に「武田信広」という人物が居ました。

後に、蝦夷地の松前藩主、松前氏の祖となる人物です。

この武田信広は、若狭国の武田氏の流れと言われていますが、これは、かなり怪しいようです。

いくつかの説がありますが、「蠣崎蔵人の乱」を起こした、土豪の蠣崎氏の出身である可能性が高いよう。

また、武田信広は、蠣崎蔵人本人である可能性も。

 

蝦夷地には、「蠣崎季繁」という人物が居ました。上之国花沢館を拠点にしていた人物で、武田信広は、この蠣崎季繁に迎えられたよう。

安藤師季の定めた「三守護体制」の時に、武田信広は「上国守護」に任命されたと言われていますが、恐らく、この時、「上国守護」に任命されたのは蠣崎季繁だっただろうということ。

武田信広は、副守護として、蠣崎季節繁を支えたと考えられる。

 

武田信広は、アイヌの大規模な反乱である、長禄2年(1457)に起きた「コシャマインの乱」で、大きな武功を挙げたそうです。

この「コシャマインの乱」の結果、松前守護、下国守護の影響力が低下をし、上国守護の力が、相対的に高まったと言われているよう。

もっとも、下国守護の力は、依然として強く、上国守護の力が、他を圧倒していた訳ではないよう。

武田信広は、蠣崎季繁の養子に入り、蠣崎氏を継ぐことになる。

後の松前藩主、松前氏は、ここから、始まることになります。

 

ちなみに、安藤氏は、勢力が衰え、蝦夷地の支配権も、蠣崎氏(松前氏)に奪われることになったものの、幕末まで、小藩主として存続をしたようです。

松前氏の歴史については、また、後で。