藤原純友について。
この本から。
「藤原純友の乱」は、東国の「平将門の乱」と、同時期に起こったものですが、恐らく、「平将門」に比べて「藤原純友」についての関心は、薄いのではないでしょうかね。
そのため、詳しく知っている人は、少ないということになるのかも。
この「藤原純友」については、平将門についての「将門記」のような、まとまった文献が無いので、断片的な史料と、当時の状況を絡めて、その生涯を推測するしか手が無いということのよう。
そのため、従来の説は、誤りと思われるものが多いということのよう。
さて、この「藤原純友」は、かつては伊予国の豪族と言われていたようですが、実は、それは誤りで、時の権力者、摂政、藤原忠平と、とても近い血縁関係にあったそうです。
純友の父、藤原良範は、この藤原忠平の従弟に当たるそうです。
そして、純友の大叔父に当たる藤原国経は、寛平6年(894)、太宰権帥に任命され、新羅海賊の追討将軍となる。この時、純友の父、良範は、太宰少弐となり、国経の代官として大宰府に下り、新羅海賊の追討に当たったと考えられるそうです。
この時、恐らく、10歳頃と思われる純友も、父と共に、大宰府に下り、戦闘を経験した。
しかし、父、良範は、間もなく、亡くなることになる。
そのため、純友は、貴族としての出世の糸口を、失うことになります。
承平年間、瀬戸内では、海賊活動が活発化をしていました。
かつて、これは、藤原純友が主導をした「藤原純友の乱」の一環と言われていましたが、それは、間違いのようです。
承平6年(936)、純友は、「追捕宣旨」を受けて、この海賊を追討する立場に居ました。
これ以前、承平2年(932)、父、良範の従弟に当たる藤原元名が、伊予国受領になっているそうで、恐らく、この時、純友は、伊予国の「掾」となり、瀬戸内の海賊退治に活躍をしていたと考えられる。
承平6年の「追捕宣旨」は、この時の純友の実績を買われてのものでしょう。
この承平期の瀬戸内の海賊も、東国の反乱と同じく、国家制度の変革に不満を持った富豪層の人たちだったと考えられるそう。
都から下った受領と、現地の富豪層たちの対立です。
特に、備前国、阿波国、伊予国での海賊の活動が活発だったようです。
そして、当初、摂政、忠平と朝廷は、東国の混乱よりも、この西国の海賊への対処を重視していたよう。
朝廷は、この海賊に対して「追捕海賊使」「国別警固使」などを設置します。
この「警固使」は、東国での「押領使」に当たるもの。
著者は、純友は、伊予国警固使にも任命されていたのではなかと推測しています。
承平6年、純友が「海賊追捕宣旨」を受けた直後、紀淑人という貴族が、「伊予守」「追捕南海道使」に任命されます。
純友は、この紀淑人の配下に入る訳ですが、何と、この紀淑人が伊予国に赴任をして間もなく、海賊たちが、一斉に、紀淑人に投降します。
これは、純友の、海賊たちへの説得工作が、功を奏したものだろうということ。
これで、承平期に活発な活動を続けた瀬戸内の海賊たちは、平定されたことになります。
しかし、天慶2年(939)12月26日、ある事件が起こります。
それは、摂津国須岐駅で、「備前介(受領)」の藤原子高が、藤原文元に襲われたというもの。
この10日前、藤原純友は、武装集団と共に、伊予国を出陣し、東に向かったよう。
理由は、何なのか。
これもまた、備前国の受領に任命された藤原子高と、現地の富豪層で、承平海賊の平定に活躍をした藤原文元の対立の激化が原因です。
文元は、この対立について、純友に支援を要請。
そこで、藤原純友は、伊予国を出陣したと考えられます。
この「純友出陣」に驚いた子高は、京都を目指して逃亡、それを追いかけた文元が、摂津国で、子高に追いつき、襲撃をしたというもの。
ここに「藤原純友の乱」が、勃発します。
この「藤原子高襲撃事件」の後、藤原文元は、備前国に、藤原純友は、伊予国に帰還をします。
この頃、朝廷は、大規模化した東国の「平将門の乱」への対処を優先し、藤原純友には妥協策を選んだそうです。
つまり、藤原純友の要求を飲み、純友の任官と、承平海賊平定への恩賞を与えることにします。
これに満足をした純友は、天皇への奏上のため、京都に登ることを想定していたようです。
この純友の上洛計画は、かつては「藤原純友の京都征服」と言われていたようですが、それも誤りだということ。
しかし、その後、瀬戸内の状況は、藤原純友の想定外に進んだようです。
それは、備前国の藤原文元、讃岐国の藤原三辰が、朝廷への反乱活動を活発化。
これらは「備前の乱」「讃岐の乱」となりますが、これらも、かつては、藤原純友の指揮下での活動と言われていましたが、それも誤りだということ。
藤原文元は、備前国から備中国を制圧し、備後国を目指す。
藤原三辰は、讃岐国から、阿波国を制圧し、淡路島に侵出します。
朝廷は、この事態に、本格的な対処を始めます。
小野好古を「追捕山陽道使」「追捕南海道使」に任命。これは、朝廷軍の総大将の地位になります。
小野好古は、まず、備前国、備中国を制圧し、藤原文元は、讃岐国の三辰の元に逃亡。
山陽道を制圧した朝廷軍は、讃岐国に渡海し、藤原三辰を攻撃。ここで、ついに、藤原純友が、伊予国から出陣し、讃岐国で、朝廷軍を打ち破ります。
しかし、ただちに反撃に転じた朝廷軍を支え切れず、藤原純友は、讃岐国を退去し、瀬戸内でのゲリラ戦に転じます。
朝廷軍は、讃岐国から伊予国に侵出。ここで、藤原三辰の首を挙げます。
劣勢に追い込まれた藤原純友は、起死回生をかけて九州の大宰府を襲撃、占領します。
しかし、小野好古率いる朝廷軍は、純友軍を打ち破り、純友は、伊予国に逃亡。
純友は、伊予国の警固使、橘遠保に討ち取られ、「藤原純友の乱」は、終結することになります。
この藤原純友は、もしかすると「滝口の武士」を務め、その時に、平将門と同僚だった可能性もあるようですね。
二人が、もし、顔見知りだったのだとすれば、その後の反乱の中で、お互いを、どう思っていたのでしょうね。