平将門について。
この本から、少し、紹介をしたいと思います。
この本、かなり薄いもので、一見、読みやすそうですが、書かれている内容は、なかなか、難しいところがありました。
9世紀末、東国では平将門、西国では藤原純友が、大規模な反乱を起こします。
これは、決して、偶然の出来事では、ありません。
8世紀まで、日本は「律令国家」で、そのための制度が整えられていました。
この「律令国家」の中心だったのは、「対新羅強硬策」「軍団兵士制」「公地公民制」の三つから出来ていたそうです。
しかし、8世紀末に「対新羅」の外交を放棄すると、「軍団兵士制」の廃止と「公地公民制」の規制緩和が行われます。
この「公地公民制」の規制緩和によって、朝廷の「税」の課税の仕方、取り立ての方法が変化をして行きます。
これは、いわゆる「租庸調」の税制から、富豪層の経済力に課税をする方法に変化をして行ったということ。
このため、9世紀末頃には、諸国の富豪層が、都の有力貴族(王臣家)と結びつき、今で言う「脱税」が横行することになります。
税の入って来ないことに頭を悩ませた朝廷は、大規模な制度改革を行うことになる。
いわゆる「律令国家」から「王朝国家」への制度変更、国家の大改革が、行われることになります。
これまで、諸国の経営に当たっていたのは「国司」ですが、この「国司」が、決められた税の徴収を請け負う「受領」となります。
これは、「律令制度」の「入るはず」税を取る税制から、「必要とする」税を取る「王朝国家」に変化をしたということ。
そして、「受領」は、自身の支配する国の支配制度も、大きく改革をすることになります。
受領が仕事を行う機関は「国衙」となりますが、この「国衙」で仕事をする役人たちを一新。そして、この受領の下で「公田」の耕作を請作し、税を納めることになるのが「負名」と呼ばれる人たち。
これを「負名体制」と呼ぶそうです。
そして、税を出来るだけ取りたい「受領」と、税を出来るだけ払いたくない「負名」の間で、緊張関係が生まれることになる。
さて、こういった、大きな国家制度の変革の中で、当然、不満を持つ人たちが、大勢、出現をすることになります。
そして、彼らが、朝廷に対して、反乱を起こすことになる。
寛平7年(895)、関東で、群盗が放棄し、7年もの間、活動を続けます。
延喜元年(901)、一度は平定をしたものの、その後も、東国の諸国で、群盗の蜂起が、相次ぐことに。
このため、朝廷は、軍制の改革を行うことで、対処をすることになる。
これまで、受領は、朝廷の指示が無ければ、兵士を集めることが出来なかったそうですが、朝廷は「追捕官符」を出すことで、受領が自由に軍事動員することを可能にした。
そして、一国単位で「押領使」を任命。著者は、この時、上総国で平高望、下野国で藤原秀郷、上野国で藤原利仁が任命されたと推測をしています。
そして、受領、国衙は、武芸に達者な人たちを動員し、それを押領使が、配下に収めて、反乱者と戦うことになる。
ここに「武士」「武士団」が生まれるきっかけが誕生します。
平将門は、この平高望の孫になります。
平高望には、上から、良望(国香)、良持、良兼、良正、良文と、五人の息子が居ました。
彼らは、関東各地で、広大な公田を請作する「負名」となり、力を蓄えます。
その中で、平将門の父、良持は、30代の時に「鎮守府将軍」に任命され、陸奥国胆沢城に滞在し、蝦夷と対峙。この時、将門も、現地に行き、武芸を磨いたと考えられます。
その後、将門は、10代後半で、京都に登り、藤原忠平の家人となったそうです。
そして「滝口の武士」となり、醍醐天皇に仕えたということ。
平良持は、鎮守府将軍となったことで、大きな財を築いたと考えられる。
この父、良持の死をきっかけに、平将門は、延長8年(930)頃、醍醐天皇の退位による「滝口の武士」の停任を機に、関東に戻る。
これは、叔父たちによる、父、良持の築いた権益の収奪に対抗するためだったようです。
当然、将門は、叔父たちを相手に、激しく、戦うことになる。
しかし、これは、あくまでも平氏一族の中の「私戦」でした。
実は、当初、平将門は、時の権力者、摂政である藤原忠平の家人であったこともあり、事態は、将門の有利に動きます。
将門に敗れて戦死した国香の息子の平貞盛や、良兼、良正らは、将門を相手に敗戦を重ねる。
実は、彼らは、京都の朝廷と、密接に連絡を取りながら、戦っていました。
それは、どちらが、朝廷の「公認」を受けた「正義」の戦いであるのかということ。
将門は、一時、忠平の召喚を受け、京都に登り、自分の戦いの弁明をしたりしています。
そして、承平7年(937)、摂政、忠平と朝廷は、将門に「追捕官符」を下し、良兼、貞盛らを追捕せよという命令を出すことになる。
これで、平将門は、朝廷公認の軍事活動を命じられたということになる。
つまり、当初、平将門は、朝廷の正規軍として、関東で活動をしていたということ。
そして、承平8年(938)武蔵国で、ある問題が起こります。
京都から下って来た源経基、興世王が、武蔵国の役人、武蔵武芝と対立。
平将門は、この両者の対立に介入して、仲介を行います。
しかし、この時、平将門を恐れた源経基は、京都に逃走。その後、「平将門、謀反」を朝廷に訴え出ることになります。
実は、それ以前、平将門に敗れ、京都に登っていた平貞盛もまた、「将門、謀反」を訴えていたようです。
天慶2年(939)、摂政、忠平は、将門を京都に召喚します。
しかし、将門は、弁明の書状を京都に送ったものの、召喚には応じなかった。
そして、摂政、忠平と朝廷は、「平将門、討伐」を決定することになる。
平貞盛は、将門の「召進官符」を持って常陸国に下る。同時に、「押領使」に任命され、将門征伐の正規軍となる。
同年、将門は、常陸国で起こっていた受領と負名との対立に介入し、平貞盛も含めて、武力衝突を起こす。
そこで、将門の軍勢は、常陸国の国庁にまで襲いかかり、ついに、「反乱軍」となってしまった。
これは、将門の想定を越えた、配下の軍勢の暴走だったよう。
ここで、覚悟を決めた将門は、関東の制圧を目指すことになる。
これには、興世王のアドバイスがあったとも言われています。
平将門は、関東諸国の国庁を、次々と制圧。
これは、将門が、関東の「独立」「新国家の建設」を目指したとも言われていますが、著者は、あくまでも、将門の関東制圧は、朝廷との交渉を有利に進めるためだったと推測しています。
しかし、摂政、忠平は、国家を挙げての「平将門、討伐」に乗り出します。
諸国の「武士」や「負名」たちに、大きな恩賞と、高い官職を約束する「檄文」を飛ばし、将門を追い詰める。
そして、下野国の藤原秀郷、常陸国の平貞盛らを、改めて「押領使」に任命し、平将門の「追捕官符」を与え、彼らの軍事力が、平将門の討伐に動き出す。
そして、天慶3年(940)2月14日、平将門は、藤原秀郷、平貞盛らの軍勢との合戦で、戦死。
「平将門の乱」は、終結をすることになる。
この「平将門の乱」で活躍をした人たちの子孫たちが、後に、「武門の家」「武家の棟梁」として、成長をして行くことになる。
その点で、画期的だったということになるのでしょう。