以前、庭瀬城跡を見に行った時に、見そびれた「撫川城跡」に行ってみました。

 

こちら、入口です。

 

橋の上から左を見る。

 

この門は、撫川陣屋総門を、明治時代に移築をしたものだそう。

この門から、中へ。

 

こちら、門を入って右手にある「撫川城」についての説明板です。

 

こちら、左手に広がる広場。

 

城跡を、西側から。

 

やや、北に、視線を移す。

この城跡の東側には「土塁」も残っているそうですね。また、見そびれてしまった。

 

さて、この「撫川城」は、備中国松山城に拠点を置いた三村家親が、備前国の宇喜多直家に備えて築城をしたものだということ。

この三村家親は、美作国で、宇喜多直家の家臣に、銃で狙撃され、暗殺されることになる。

個人的には、このエピソードには、疑問を持っているところ。

果たして、当時の火縄銃で、標的を狙撃するということが可能だったのかどうか。

幕末に日本に入って来た「ゲベール銃」でさえ、命中率は、かなり悪かったそう。

戦国時代の火縄銃で、ある人物を狙撃することなど、出来たのかどうか。

 

さて、ついでに、「庭瀬往来」を歩いてみることにしました。

 

江戸時代、岡山城を中心にして、六つの道が整備をされたそうですね。

この「庭瀬往来」(鴨方往来)は、その中の一つだそう。

もう一つの「金比羅往来」は、庭瀬まで「庭瀬往来」と同じ道だったそうです。

ここで、「庭瀬往来」と「金比羅往来」が、別れることになる。

 

「庭瀬往来」に向かう途中に、このような石柱が。

「こんぴら」「由が」と書かれているのが見えます。

金比羅と由加は、当時、セットで、「両参り」と呼ばれた。

当然、金比羅に向かうには、由加を経由することになるのでしょう。

 

 

そして、この大きな石柱がありました。

ここで、「金比羅往来」と「庭瀬往来」が、分岐をすることになるのでしょう。

「安政六年」「吉備津」「岡山」「大阪」の文字がありますね。

 

やや、遠景。趣のある家が、並んでいます。

 

一番右の家の前に、このようなものが。一体、何なのでしょう。

 

こちら、かつて存在した「撫川大橋」の常夜灯。

足守川に架かっていた橋のようですね。

 

こちら、説明板です。

 

 

 

庭瀬往来にある、いくつかのお寺の前に、このような庭瀬の歴史についての説明板が、設置されていました。

なかなか、面白い。

 

さて、こちらは、そのお寺の一つの「観音院」。

西大寺の観音院と同じく、かつては、ここでも会陽が行われていたそうですね。

 

こちら、用水と常夜灯の説明板です。

撫川と庭瀬の境に設置をされていた常夜灯で、今は、隣のお寺の境内に移動させられている。

 

これが、そちら。

 

 

こういった建物も。

 

さて、今回、「庭瀬往来」に来てみようと思った理由が、こちら。

昔の「薬屋」のようです。

 

中に、色々と、興味深いものが置かれているのが、ガラス越しに見えます。

もちろん、今は、この薬屋は、営業をしている訳ではないのでしょう。

 

こちら、「薬屋」の入口です。

なかなか、良い雰囲気ですね。

 

こちらは、吊り下げの「薬」の看板。

やはり、昔のものは良いですね。

味があります。

 

こういったものは、出来るだけ、残して欲しいものですが、そもそも、無くなる時には、価値があるとは思われていないんですよね。

そして、何でも、新しいものを有り難がる。

こうやって、残っているのが嬉しいところ。