雑誌「歴史人」の3月号を読了。

テーマは、「奥州藤原氏」を中心にした東北地方の歴史でした。

 

 

さて、この中で、個人的に興味があったのは、古代、朝廷と蝦夷との戦い。

いわゆる「38年戦争」のこと。

 

日本の朝廷は、8世紀頃から、「蝦夷」と呼ばれる人たちが住んでいた東北地方に侵出を始めます。

天平宝字3年(759)には、陸奥国北上川下流に「桃生城」を出羽国には「雄勝城」を築いたということ。

しかし、宝亀5年(775)に、海道の蝦夷が、桃生城を襲い、陸奥国司との戦いが始まります。

この時から、弘仁2年(811)まで、朝廷と蝦夷との戦いは、38年、続くことになる。

 

宝亀11年(780)、蝦夷の首領、伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)が反乱を起こし、多賀城を焼き討ちにします。

まもなく、即位をした桓武天皇は蝦夷征討計画を建てることに。

第一回目は、征東将軍に任命した大伴家持が亡くなったために中止。

延暦7年(788)、紀古佐美を征東大使に任命し、東北に遠征。

延暦8年(789)、紀古佐美の率いる遠征軍は、北上川で、阿弖流為の率いる蝦夷の軍勢に、大敗を喫する。

延暦10年(791)、大伴弟麻呂を征東大使に、坂上田村麻呂を副使に任命し、遠征軍を派遣。しかし、阿弖流為を相手に、一進一退。

延暦16年(797)、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、東北に派遣。

坂上田村麻呂は、阿弖流為を相手に東北で戦闘を続け、延暦21年(802)、ようやく、阿弖流為の本拠地である胆沢を攻略。ここに胆沢城を築城する。

阿弖流為は、坂上田村麻呂に降伏。どのような戦闘があり、どのようにして阿弖流為が敗北、降伏をすることになったのか、記録がないので、経緯は不明だということ。

坂上田村麻呂は、阿弖流為と共に、京に向かい、助命嘆願をしますが、処刑されることになる。

弘仁2年(811)、征夷大将軍、文室綿麻呂が東北に遠征し、蝦夷の村、二村を平定し、「38年戦争」は、集結をすることになる。

 

さて、この「38年戦争」で、一応、東北地方は、朝廷の支配下に入ったことになる訳ですが、その後、陸奥国では、「安部氏」が、出羽国では「清原氏」が、勢力を持つことになる。

以前、読んだ本では、「安部氏」は、「蝦夷の末裔」で、「清原氏」は、都から下った人の子孫ではないかと書かれていましたが、この雑誌「歴史人」の記事では、逆の説が書かれていました。

 

そして、「前九年の役」「後三年の役」の結果、東北地方には「奥州藤原氏」が誕生をすることになる。

 

さて、「蝦夷」は「アイヌ」なのかというのは、よく言われるところ。

しかし、この雑誌「歴史人」の記事には、そもそも「アイヌ」という民族は、13世紀頃に生まれたもので、それ以前には「アイヌ」民族は、存在をしていなかったと書かれていました。

つまり、「蝦夷」は「アイヌ」なのかと言えば、「蝦夷」は「アイヌ」の先祖でもあり、日本人の先祖でもある、と、書かれていました。

なるほど、と、思ったところ。

 

さて、「奥州藤原氏」について、少し。

 

藤原清衡、基衡、秀衡の三代は、中尊寺金色堂に遺体が残されていて、調査がされています。

 

その調査によれば、初代の清衡は、屈強な体を持ち、合戦に明け暮れた武人だったということが分かるそう。

 

そして、二代、基衡は、屈強な体ではあったものの、肥満体でもあったということ。

これは、奥州藤原氏の「貴族化」が進んでいたためだということ。

平泉に住居を移したのは、初代、清衡ですが、平泉の町を整備したのは、二代、基衡ということになる。

 

三代、秀衡になると、もう、完全に、貴族のような肥満体だったようですね。

武人とは、ほど遠い、都の貴族のような生活が、平泉でも行われるようになっていたということ。

 

なかなか、面白いです。