今日は、良い天気で、「八浜合戦」の戦場となったという「柳畑古戦場」の辺りを散歩。

 

改めて、「八浜合戦」とは。

 

天正10年(1582)2月21日、備前国児島郡八浜で行われた、宇喜多氏、毛利氏の合戦です。

ちなみに、この前年、宇喜多直家は、53歳で病没。

宇喜多軍は、宇喜多基家を大将にして、両児山城に布陣。

一方の毛利軍は、穂田元清を大将にして、麦飯山城に布陣。

この合戦は、宇喜多軍が、兵を出し、麦飯山城近くの大崎村で、少人数の小競り合いから始まり、双方、兵を、それぞれに繰り出し、大規模な合戦になります。

宇喜多軍は、大将の宇喜多基家が戦死をしますが、いわゆる「八浜七本槍」の活躍で、毛利軍を食い止め、毛利軍は、両児山を攻めることなく、兵を引いたということ。

 

この「八浜合戦」の主戦場だったと思われるのが「柳畑古戦場」です。

 

民家の隣に、説明板と、供養塔があります。

 

別の角度から。

スイセンと思われる花が、たくさん、咲いています。

 

古戦場近くから、東方面、両児山城のある方を眺める。

左の大きな建物は、学生服の会社「トンボ」です。

両児山城は、残念ながら、小さくて見えないよう。

 

さて、この「柳畑古戦場」から、少し、西に歩くと「辻の堂五輪塔・明石源三郎の墓」と呼ばれるものがあります。

それが、こちら。

 

お花が、供えられているようですね。

説明板もあります。

 

角度を変えて。

 

さて、この「明石源三郎」とは、何者なのか。

ネットで調べてみる。

 

この「明石源三郎」とは、麦飯山城の城主だった人で、天正3年(1575)に、毛利氏の軍勢によって、麦飯山城を攻められ、麦飯山城から出陣したところ、毛利軍に討ち取られたということが、「西国太平記」という本に記されているようです。

しかし、この「西国太平記」には、明らかに史実ではない記述が多く、内容は、あまり信用が出来ないようですね。

この「明石源三郎」も、実在をした人物なのかどうか、分からないということのよう。

ちなみに、この「三郎」という名前は、備前明石氏の当主が、代々、使用していたようです。

果たして、「明石源三郎」は、誰か、実在の人物と混同されているのか、それとも、全くの架空の人物なのか。

 

麦飯山城を、東から望む。

ここから、毛利軍が、下って来たんですよね。