鎌倉時代に活躍をした「一遍」という僧が居ます。

この「一遍」は、良寛とは別の意味で、個人的に、強い関心を持っています。

 

一遍は、「時宗」と呼ばれる宗派の祖となっています。

しかし、個人的には、一遍を時宗の祖とするには、少し、違和感のあるところ。

なぜなら、一遍には、自身が、宗派の祖になろうという気持ちが、全く、無かったということ。

一遍は、いつも「自分の教えは、自分の代で終わりだ」と話していたということ。

そして、亡くなる少し前には、自分が持っていた書籍などを、全て、阿弥陀経を唱えながら燃やし、「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」と言ったということ。

つまり、一遍は、自分が亡くなれば、全て、無くなってしまうと考え、むしろ、無くなってしまわなければならないと考えていたということ。

それは、「南無阿弥陀仏」という名号を除いて。

 

一遍は、延応元年(1239)に、伊予国で、河野家に生まれます。

この河野氏は、源平の戦いでは、源氏について手柄を挙げたものの、承久の乱では、後鳥羽上皇に側につき、没落をすることになります。

宝治2年(1248)、10歳の時に、母親の死をきっかけに、出家。

この時は、天台宗の継教寺に入り、「随縁」と名乗ります。

建長4年(1252)、九州の太宰府の「聖達」の下で「浄土宗西山義」を学び、肥前国の清水で「華台」の下でも修行。この頃、名を「智真」と改めます。

弘長3年(1263)、父の死によって、25歳の時、一度、伊予国に戻り、還俗。

しかし、文永8年(1271)に、再出家をして、信濃国の善光寺に向かいます。

善光寺で「二河白道」の影響を受けた智真は、伊予国に戻り、窪寺、岩屋に籠り、「十一不二」の偈を得る。これが、一遍の宗教的悟りとなる。

 

十劫に正覚し衆生界、一念に往生す弥陀の国、十と一とは不二にして無生を証し、国と界とは平等にして大会に坐す

 

ここから、智真の「遊行」が始まります。

 

智真は、超一、超二、念仏房という三人を連れて、旅にでます。

智真は、人々に「念仏」を勧めながら、旅をします。

ちなみに、智真は、「念仏」を勧める時に、「南無阿弥陀仏・決定往生六十万人」と書かれた札を、人々に配ります。

これが「賦算」と呼ばれるもの。

ちなみに「六十万人」とは、「六字名号一遍法、十界衣正一遍界、万行離念一遍証、人中上々妙好華」のこと。

 

そして、智真は、紀伊国熊野本宮に向かいます。

ここで、智真は、ある体験をします。

 

人々に、「今、信心を起こして、念仏を唱え、この札を受け取って下さい」と、賦算をしながら、熊野本宮に向かっていたところ、一人の旅の僧に出会います。

智真は、念仏札を、その僧に渡そうとしますが、僧は「信心が起きないので、受け取れない」と、念仏札を受け取るこを拒否します。

周囲を行き交う、多くの人が、その様子を見守る中で、智真は、「とにかく、この札を受け取って下さい」と、無理矢理、念仏札を、その僧に渡して、その場を去ります。

この出来事が、智真を、大きく、悩ませることになります。

 

果たして、信心が起きないという者に、無理矢理、賦算をすることに意味があるのか。

しかし、人々に念仏を勧め、賦算を続ることが、自分の僧としての使命であり、それをしなければ、自分の存在意義がない。

 

智真は、熊野本宮に籠り、考えます。

そこで、不思議な出来事が起こります。

 

目の前に、山伏の格好をした人物が現れ、智真に、こう語りかけます。

 

「お前の念仏の勧め方は、間違っている。お前が念仏を勧めたから、衆生は、往生をする訳ではない。一切の衆生の往生は、阿弥陀仏の決定するところである。お前は、相手の信、不信を問わず、浄、不浄を問わず、その札を配れば良いのだ」

 

ここから、「信不信」を問わず「浄不浄」を問わず、名を、智真から「一遍」に改めた、一遍の活動が始まります。

超一、超二、念仏房の三人とも別れ、一遍の、旅が始まります。

 

さて、以上、「一遍」に始まる「時宗」が誕生をするきっけけになった経緯です。

 

一遍は、法然に始まる「浄土衆」の系統に属する宗教ですが、法然の「浄土宗」や、親鸞の「浄土真宗」とは、かなり、その思想は、異なる印象です。

 

一遍の教えの特徴は、まさに、この「信不信を問わず」「浄不浄を問わす」というところにあります。

つまり、阿弥陀仏への「信心」が、あろうが、なかろうが、また、「清浄」な人間であろうが「不浄」な人間であろうが、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、誰もが、往生することが出来る。

なぜなら、それは、阿弥陀仏が、そう決めたのだから。

 

この、一遍の教えは、多くの人を引きつけ、爆発的なブームになったようです。

 

多くの信者が、一遍と一緒に、日本各地を旅することになります。

その様子は、「一遍聖絵」に詳しい。

 

 

この「一遍聖絵」は、一遍の死後、10年に制作された絵巻物で、一遍の弟とも甥とも言われる「聖戒」と呼ばれる人物が制作したもので、当時の社会、風俗を、よく伝えるものとして「国宝」に指定されています。

一遍の生涯が、詳しく描かれている。

聖戒は、絵師や、一遍と共に旅をした「時衆」と呼ばれる信者の一部と共に、改めて、一遍の歩いた旅をたどり、この「一遍聖絵」を制作したのではないかとも言われています。

 

そして、一遍の宗教思想の特徴を、もう一つ。

 

それは、「全てを、捨て去る」というもの。

 

一遍は「捨聖」と呼ばれたように、「全てを、捨てる」ということを主張しました。

つまり、「全てを捨て去って、念仏を唱えなさい」というのが、一遍の教え。

この一遍の宗教思想は、「一遍上人語録」に収録されている「興願僧都」に宛てた一遍の手紙に、集約されています。

実に、素晴らしい文章で、読んでいて、感心するもの。

 

 

 

この、一遍の興願僧都への手紙に書かれた文章を見ると、一遍の思想は、「浄土宗」よりも「禅宗」に近い印象です。

禅宗では、全てを捨てて「無」になることを追求しますが、一遍は、全てを捨てて「念仏」だけに集中することを求める。

まさに、「念仏」の他には、何も無い。

逆に言えば、この世の全ては「念仏」である、と、言うこと。

 

以下、余談になりますが、僕が「一遍」という人物に、色々と興味を持っている点を話します。

 

一遍と言えば、念仏札を配る「賦算」、そして、全国各地を歩き回る「遊行」、そして、念仏を唱えながら踊る「踊り念仏」の三つが、有名です。

そして、もしかすると、多くの人が、この三つを、一遍に独特のものだったと思っているのかも知れない。

 

しかし、この三つのことは、実は、他にも、多くの「聖」たちが行っていることでした。

彼らは、「念仏聖」と呼ばれ、念仏を、多くの人たちに広めるために、全国各地を歩き、念仏の布教をしていた人たち。

彼らが、念仏を広めていたのは「融通念仏」と呼ばれる考えがありました。

これは、出来るだけ多くの人たちが念仏を唱えることにより、その念仏の効果が高まるというもの。

一遍も、その、多くの「念仏聖」の一人です。

そして、他の念仏聖たちも、念仏札を配る「賦算」や、念仏を唱えながら踊る「踊り念仏」によって、布教活動を続けていました。

有名なところでは、一遍と同時代に活動していたという「一向俊聖」という人物。

この「一向俊聖」もまた、一遍と同じように「踊り念仏」などで、布教活動を行っていたようです。

そして、一向俊聖もまた、多くの門徒を持ち、元々は、この一向俊聖の門徒たちのことを「一向宗」と言ったようです。

 

しかし、多くの念仏聖の中で、この一遍だけが、社会に、爆破的なブームを巻き起こした。

多くの「時衆」と呼ばれる門徒たちを率いて旅をする一遍たちは、熱狂的に、土地の人に迎えられるようになる。

 

なぜ、一遍だけが、このような影響力のある巨大な集団を作ることが出来たのか。

非常に、興味深い。

 

そして、多くの念仏聖の門徒たちが、この一遍に始まる「時宗」に取り込まれることになります。

ちなみに、一遍の門徒たちを「時宗」として再編成したのが、他阿真教という人物です。

この他阿真教が居なければ、「時宗」という宗教は、一遍の死後、消滅をしていたことでしょう。

 

そして、一遍、他阿に始まる「時宗」は、室町時代には、社会を席巻し、大きな影響力を持つようになったようです。

この「時宗」の「踊り念仏」は、様々な芸能の原点になっているということ。

例えば、全国各地の「盆踊り」や、「歌舞伎」の源流も、この「念仏踊り」ということになるよう。

「能」を大成した観阿弥、世阿弥もまた、「時宗」の門徒だった可能性があるそうです。

 

しかし、この「時宗」は、室町時代の後期に登場した「蓮如」活躍によって、多くが「浄土真宗」に取込まれることになる。

 

ちなみに、一遍の死後も、この「時宗」の当主は、代々、門徒を連れて日本各地を回る「遊行」を続け、各地で、熱狂的に迎えられていたようです。

それは、江戸時代まで続いたとか。

 

個人的には、一遍の思想を知るには、「一遍聖絵」に書かれた文章と、「一遍上人語録」に収録された一遍の言葉を読むだけで、十分ではないかと思います。

その中に、一遍の言いたいことの全てが、含まれている。

他に、多くの解釈や、作法に惑わされるというのは、一遍の伝えたかった「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏に成り果てぬ」という一遍の言葉に、反するのではないかと。