昨日に続き、この本から。

 

 

良寛は、なぜ、「子供」を相手に遊んだのか。

これも、大きな疑問の一つでした。

当時、大人が、子供を相手に遊ぶということは、無かったよう。

だから、良寛が、子供を相手に、楽しく遊んでいるという光景は、見ている人には、当初、かなり、特異に見えたはず。

 

さて、この本を読んで、改めて、気がつかされたこと。

実は、良寛が、遊び相手にしていたのは「子供」だけではありません。

 

良寛は、「遊女」を相手にも、よく遊んでいたというのは、有名な話。

当然、「僧」である良寛が、「遊女」を相手に遊んでいるというのも、周囲の人からすれば、特異な光景だったでしょう。

 

良寛が、子供を相手に遊ぶ時に「手鞠」をついて遊んでいたというのは有名ですが、遊女を相手に遊ぶ時には「おはじき」を使って、遊んでいました。

「手鞠」も「おはじき」も、良寛が得意にしたもの。

良寛は、いつも、「手鞠」「おはじき」を持ち歩き、子供や遊女と遊んでいた。

では、なぜ、良寛は、「子供」や「遊女」と一緒に、遊んだのか。

 

一つは、やはり、良寛自身が「遊ぶ」ということが好きだったのでしょう。

良寛が、純粋に、この「遊ぶ」という行為を楽しんでいたということは、書き残した和歌や漢詩を見ても、分かること。

そして、良寛にとって、子供を遊女を相手に遊ぶということは「布施」の一つでもあったよう。

つまり、僧としての使命の一つ。

 

では、なぜ、良寛が「子供」「遊女」を相手に、布施行をしたのか。

そこには、「子供」や「遊女」を取り巻く、深刻な問題がありました。

 

医学の発達していない時代、「子供」の死亡率が、とても高かったというのは、有名な話。

つまり、今、元気な子供でも、いつ、死んでしまうか分からない。

実際、良寛の周囲でも、多くの子供が亡くなり、その悲しみを詠んだ和歌や漢詩も、多くある。

良寛には、今、元気な子供を相手に「遊ぶ」ということに、とても大切な意味を感じていたのではないでしょうか。

 

そして、もう一つ、大きな問題がありました。

 

人身売買が、当たり前に行われていた時代、貧しい農村の子供たちには、親の生活のために「売られる」ということが、当たり前に行われていた。

 

この本には、別の本から引用した話として「飯盛女」の話が、掲載されていました。

この「飯盛女」とは、江戸時代に、宿場町などに存在をした、宿泊客に食事の給仕をするための下女のこと。

そして、この「飯盛女」は、食事の給仕だけではなく、「売春」もまた、仕事にしていた。

上野国、今の群馬県などの宿場町には、良寛の居た越後国からも、多くの貧しい農村の娘たちが、人身売買によって「飯盛女」として働きに来ていたよう。

彼女たちが、買われる年齢は、13歳から16歳くらいで、年季が明けるのは、10年弱くらいだったようです。

実は、この「10年弱」という年季には、意味があります。

それは、実際には、この「飯盛女」の多くが、この年季に耐えられず、二十歳過ぎくらいの年齢までには、栄養不足による結核などの病気や、性病などで、死んでしまうことになる。

群馬県には、この「飯盛女」の多くのお墓が残されているようで、それを見ると、多くの人が、二十歳過ぎくらいで亡くなっている。

そして、出身地や、亡くなった年を見ると、実際に、子供の頃に、良寛と一緒に遊んでいたのではないかと思われる人も、何人も含まれているよう。

 

つまり、今、「幸せ」で「元気」な子供だったとしても、将来は、どうなるか分からない。

だから、「今」、「元気」で「幸せ」な時に、精一杯、子供たちを遊んであげようという気持ちが、良寛には、あったのではないでしょうか。

 

そして、「飯盛女」を見ても分かるように、「遊女」もまた、長く生きる可能性は無かったということなのでしょう。

 

だから、「今」を、大切に、良寛は、子供や遊女を相手に、楽しく、遊んでいた。

と、言うことになるのではないでしょうか。