最近、良寛について、興味深い本を見つけ、読んでみました。

それが、こちら。

 

 

この本。

他に、多く出版されている良寛をテーマにした本と比べて、少し、毛色の違う感じです。

内容は、徹底して、良寛の内面を「リアル」に捉えようとした印象で、良寛の内面を知るには、やはり、良寛の書き残したもの、特に「漢詩」の内容をつかまなければならない。

しかし、これが、なかなか、難しい。

 

そして、良寛自身、自分のことを他者に話さなかったので、詳しい経歴が、よく分からない。

また、良寛は、他人に「説法」をしなかったので、その宗教思想も、よく分からない。

そこで、手がかりになるのが「漢詩」そして「和歌」です。

そして、やはり「漢詩」というものが、重要になる。

 

疑問の一つ。

なぜ、良寛は、生涯を、一人の「乞食僧」として過ごしたのか。

 

この「乞食」が、どのような意味を持つものだったのか。

それは、その「乞食」が持つ、宗教上の意味を知らなければならない。

 

良寛の残した「漢詩」を読むと、良寛が、一般的な「僧」という存在を、厳しく批判していることが分かる。

寺の中での出世争い、宗門の間での意味の無い対立、宗教を飯の種としての仕事としか考えない僧たち。

一向に、民衆に目を向けず、民衆の救いなど関係の無い僧たちを、良寛は「漢詩」で、厳しく批判をしている。

 

そして、良寛は、「寺」を離れ、他の僧たちとは距離を置いた。

そして、良寛が、自分が、僧として生きる使命としたのが「乞食」です。

「乞食」をすることで、日々、民衆の中に入り、民衆に関わることになる。

民衆は、良寛に、食べ物などを「布施」をし、良寛は、僧としての自分自身の様子を、民衆に見せることで「布施」をする。

そういう考えが、良寛には、あったようです。

そして、良寛は、この「乞食」に強い思い入れがあったようで、その決意と覚悟を記した「漢詩」を、いくつも残しているよう。

 

さて、良寛が「寺」を離れた理由として、興味深い話が、一つ。

 

良寛は、曹洞宗を破門され、円通寺を追放されたのではないかと考えている人が居るそうですね。

もっとも、この説は、良寛を研究する人たちの主流の考えではないようで、この本を読んで、初めて、知ったこと。

実は、この円通寺を出てから、良寛が、一度も、曹洞宗の寺の厄介になったことがないというのは、個人的に、以前から気になっていました。

曹洞宗を破門され、円通寺を追放されたのなら納得ですが、個人的には、この説は、どうも信用できないところ。

なぜなら、良寛自身が、自分が、曹洞宗を破門されたと書き残したものがないから。

 

当時の「禅宗」を巡る社会的状況についての解説もありました。

 

実は、この当時、「禅宗」の中の「曹洞宗」「臨済宗」は、かなり、衰退した状況にあったようですね。

その中で、影響力を持っていたのが、江戸時代に、中国から伝来した「黄檗宗」です。

どうも、良寛の師、国仙和尚は、この「黄檗宗」の影響を受けた「念仏禅」だったようです。

そして、当然、良寛もまた、この「念仏禅」の影響を受けていたということのよう。

 

しかし、国仙和尚が亡くなり、円通寺の住職を継いだのが「玄透」という人物。

この玄透は、曹洞宗の立て直しに尽力をした人物だそうで、円通寺でも、黄檗宗の影響を排除しようと、内部対立が起こったよう。

そして、黄檗宗の影響を受けた門徒たちが排除されて行く中で、良寛もまた、円通寺追放、曹洞宗破門、と、言うことになったのではないかということ。

 

果たして、これは、史実なのかどうか。

 

そして、もう一つ、大きな疑問が、良寛は、なぜ、子供を相手に遊んだのか、と、言うこと。

これに関しては、また明日にでも。