さて、三度、良寛について。
個人的に、大きな謎の一つに、「なぜ、良寛は、帰郷をしたのか」というものがあります。
良寛にとって、故郷とは、本来、継がなければならなかった名主としての仕事、家を放棄した場所であり、場合によっては、厳しい非難を浴びる可能性もあった場所ではなかったでしょうか。
もっとも、僧として、それなりの立場、名声を築き、「故郷に錦を飾る」という状態であったのなら、帰郷をする気持ちも、分からない訳ではない。
しかし、良寛は、名も無い、一乞食僧として帰郷し、一生、その立場を貫いた。
この本から、良寛の帰郷と、その後の人生を、振り返ります。
ちなみに、この本もまた、良寛について最初の知識を得るには、とても良い本だと思います。
寛政2年(1790)、33歳の時、良寛は、備中国玉島の地にある円通寺で、10年の修行を経て、師の国仙和尚から、「印可の偈」を授けられます。
この「印可の偈」とは、禅僧として、一人前になったという証のようなもの。
そして、この「印可の偈」には、「良寛庵主に附す」とも書かれていて、円通寺にある庵に住むことを許されたと思われるそうですね。
つまり、良寛は、この円通寺の庵で生活をしながら、一生を過ごすことも出来たということ。
しかし、翌年、国仙和尚が亡くなると、良寛は、間もなく、円通寺を去ることになる。
円通寺を去った良寛は、直接、故郷の出雲崎に帰った訳ではありません。
乞食僧として、修行の旅を、しばらく続けていたようです。
良寛が、どこで、どのような旅をしていたのか。
記録が無いので分かりませんが、良寛が残した和歌から、その足取りを推測することは出来るようです。
播磨国、紀伊国、大和国、四国などを巡り、京都にも、しばらく留まっていたようだということ。
そして、寛政7年(1795)、父の以南が、京都の桂川に身を投げて、自殺をします。
この出来事がきっかけになったのか、良寛は、翌、寛政8年(1796)、39歳の時に、円通寺の庵は、完全に引き払い、信州を経て、越後国に向かうことになる。
この間、良寛は、望郷の和歌を、いくつか残しているそうです。
個人的には、「望郷の念」というのは、故郷を離れた、誰もが持つものだと思うので、良寛が望郷の和歌を詠むこと自体、不思議ではない。
しかし、実際に、故郷に戻るかどうかは、別の問題。
故郷に「不」の思い出があり、自ら、何か、その後、栄誉を受けている訳ではないとなれば、尚更です。
さて、越後国に向かった良寛ですが、まず、糸魚川で、しばらく、病に伏せっていたようです。
そして、その後、なぜか、生まれ故郷の出雲崎を通り過ぎ、郷本の海岸近くにあった誰も居ない庵に住み着きます。
良寛は、ここで、ただの乞食僧として、生活を始めます。
自ら、周囲に、自分が出雲崎の名主「橘屋」の跡取りだった山本文孝、栄蔵だとは、話すことは無かったよう。
これもまた、謎の一つ。
「北越奇談」という本によると、この時、良寛は、托鉢に出ると、自分に必要な分以外は、他の乞食や、鳥獣に与えていたということ。
半年が過ぎた頃、良寛の乞食僧としての生活に感心をした周囲の人たちが、進んで喜捨をするようになったそうですが、それも、余分なものは、他の人に与えていたということ。
そして、やがて、この乞食僧は、橘屋の文孝ではないかと気がつく人が居て、良寛の旧知の人が、確かに、良寛であるということを確認。
実家を継いでいた良寛の弟、由之に知らせ、由之は良寛の庵を訪ね、家に連れて帰ろうとしますが、良寛は、それを拒否する。
越後国に戻った良寛は、一年ほど、修行の旅をした後、有名な国上山にある「五合庵」に入ることになる。
これには、旧友の口添えがあったそうです。
もっとも、この五合庵は、国上山にある「国上寺」のもので、国上寺が使う時には、良寛は、五合庵を出て、他の寺の厄介になっていたよう。
そして、文化2年(1805)、48歳の時から、良寛は、五合庵に定住することになる。
文化13年(1816)、59歳の時、良寛は、五合庵を出て、乙子神社の庵に移ります。
これは、老齢になった良寛のことを心配した、良寛に弟子入りをしていた遍澄という人物の勧めによる。
この頃、長岡藩主、牧野忠精が、良寛を訪ね、長岡の寺で、住職になるように誘ったと言われています。
この時、良寛が詠んだのが「たくほどは風がもてくる落ち葉かな」という俳句です。
この俳句を見て、忠精は、良寛を招くことを諦めたということ。
そして、遍澄が、良寛の元を離れなければならない事情が出来、遍澄は、島崎の木村元右衛門に良寛のことを頼みます。
文政9年(1826)、良寛は、木村家の庵に移ります。
この時、69歳。
翌、文政10年(1827)、貞心尼が、良寛を訪ねて来て、弟子となり、親しく、交友を重ねることに。
文政13年(1830)、夏から、良寛は、体調を崩します。直腸ガンだったと推測されているそうです。
そして、翌、天保2年(1831)、正月に、良寛は亡くなります。
享年、74歳。
帰郷をした良寛は、かつての旧友や、何人もの支援者に支えられ、生活をしました。
しかし、個人的には、これは、結果論であって、もしかすると、誰の支えも受けることが出来ず、厳しい乞食僧としての生活を続け、やがて、野垂れ死にをすることも、良寛の中では、想定されていたのではないでしょうか、と、想像をするところ。
これは、最初に、郷本の庵で生活を始めた時、自ら、身元を明かすことなく、乞食僧として、厳しい生活を続けていたことが証明しているのではないでしょうか。
そして、五合庵での一人の生活も、かなり、厳しいものだったのではなかと。
さて、ここで、勝手に、俳諧師、井上井月と比較をしてみます。
信州伊那で、定住の場所を持たず、長年、生活を続けた井月は、俳諧師の師匠として、弟子、仲間たちの間を泊まり歩く生活を続けましたが、晩年には「乞食井月」と蔑まれ、邪魔者扱いをされながらも、伊那を去ることはなく、結果、野垂れ死にをすることになります。
良寛もまた、この井月のような最期を迎える覚悟があったのではないか。
と、思うところではありますが、もし、そうだとすれば、相当な覚悟。
良寛の厳しさを想像します。