世界初の実用ジェット戦闘機「メッサーシュミットMe262」について、昨日のブログで書きましたが、第二次世界大戦末期、日本でもジェット機の研究、開発が行われていました。
それが、特殊攻撃機「橘花」です。
開発が始まったのは、1944年8月と、欧米に比べて、かなり遅い。
しかし、ジェットエンジンについての研究は、日本でも、以前から進められていて、ジェットエンジンの実用化に向けて、急速に、開発が進められることになる。
その頃、ドイツの「メッサーシュミットMe262」戦闘機に使用されているジェットエンジンの技術を参考にしょうと、潜水艦による資料の引き渡しが、計画、実行されましたが、インドネシアで、ドイツ潜水艦からの資料に受け取りには成功したものの、その後、日本に向かう途中で、日本の潜水艦は撃沈されたしまった。
潜水艦に乗せられなかった、わずかな資料だけが、日本に運ばれたものの、参考にするほどの情報は得られなかったということ。
そのため、「橘花」に使用されたジェットエンジン「ネ20」は、完全に国産ということになる。
この本、未読ですが、どうも、この「ネ20」の開発の歴史をメインにした本のようです。
この「橘花」は、ドイツの「メッサーシュミットMe262」のコピーとか、「ネ20」もまた、ドイツのエンジンのコピーと言われることもありますが、これは、間違いです。
機体も、エンジンも、日本で、独自に開発をされたもの。
この「橘花」が、初飛行をしたのが、1945年8月7日。
たった、12分の飛行だったそうですが、これが、日本で、初めてのジェット機の飛行ということになる。
そして、8月12日の飛行テストの時、離陸に失敗し、滑走路をオーバーランして、機体が故障。これは、テストパイロットが、離陸用の補助ロケットの燃焼が終了し、速度が落ちたのをエンジントラブルと誤解をし、停止しようとしたが、機体が滑走路を越えてしまったということ。
そして、そのまま、8月15日、終戦を迎えたそうです。
実は、この「橘花」は、「特攻機」として、開発されたという話があります。
僕が、昔、読んだ本にも、そう書かれたものがあった記憶があります。
なぜ、「橘花」が、特攻機なのかと言えば、「ジェットエンジン」は、従来の「レシプロエンジン」に比べて、構造が簡単で、生産をしやすいということ。
つまり、生産に手間がかかる「レシプロエンジン」の飛行機を特攻機にするよりも、比較的、簡単に生産できる「ジェットエンジン」の飛行機を特攻機にした方が、効率的だということ。
また、この「橘花」は、搭乗員を守るための防弾装備が、他の軍用機に比べて、充実していたということ。
これは、機体が体当たりをするまで、確実に、操縦をする搭乗員を守るため。
何だか、皮肉な話です。
しかし、どうも、この「橘花」が「特攻機だった」というのは、誤りのようですね。
基本的には、爆弾によって敵艦を攻撃する「対艦攻撃機」として開発が行われたということのよう。
しかし、当時の日本の状況からして、名目的に「特攻機」として、開発が許可されていたようで、そうでなければ、開発を続けるのは難しかっただろうという話。
そして、もし、完成、量産となっても、「特攻機」として使用する以外、道は無かったろうということ。
この「橘花」が、どのような性能を持っていたのか。
一度、わずかな時間、試験飛行をしただけなので、正確なところは分からない。
カタログ値としては、最高速度が、650キロくらいのようなので、大戦末期に活躍をしていた欧米のレシプロ戦闘機よりも劣るということになる。
やはり、イギリスの「グロスターミーティア」のように、ジェットエンジンで飛行をしているということ意外、それほど、有利な点は、無かったということになるのかも。
ちなみに、局地戦闘機「震電」もまた、ジェットエンジンを搭載する予定があったとか。
随分と、特異な格好をしているのが分かりますかね。
これは「前翼式」と呼ばれ、主翼を、機体の後部に持ってきて、前方に、小さな翼をつけ、エンジンを後部に載せることによって、機首に、武装を集中させることが出来る。
この「震電」は、高速、重武装に特化した機体で、最高速度750キロを目指したもの。
1945年8月3日、6日、8日と、試験飛行を行ったそうですが、エンジンが故障し、そのまま終戦を迎えることに。
この「橘花」「震電」、共に、試験飛行を撮影した動画が残っているという話ですが、一度、見てみたいものです。