塩見鮮一郎「差別の日本史」という本を本屋で見つけ、読みました。

この本は、日本の歴史、古代から現代まで、日本の社会に存在をした「差別」について、著者が、質問に答えるという形式で書かれた本。

内容としては、「広く」「浅く」と言った感じで、基礎知識を得るためには良いのかも知れませんが、この本から、差別の具体的なイメージは、なかなか、沸かないということになるのかも。

 

 

 

さて、この日本の歴史上に存在をした「差別」の問題。

学校の歴史の授業では習いませんし、ドラマや映画の時代劇や、歴史小説、時代小説にも、「差別」を専門に扱ったテーマの作品以外は、登場しない。

そのため、特に、意識をして「差別」というものに関心を持っている人以外、歴史好きな人でも、詳しいことを知る人は、あまり居ないのではないかと想像するところ。

 

個人的に、日本の歴史、社会での「差別」に関して、強い関心があり、色々と思うところもあります。

以下、簡単に、書いてみますが、こん「差別」の問題は、色々と難しく、微妙な問題を含んでいて、僕が、これから書くことについて、不快に思う人、または、「それは違う」と考える人も居ることでしょう。

 

まず、一つは「奴隷」について。

 

日本の歴史の中に「奴隷」というものは、存在をしなかったと考えている人も多いのではないかと想像します。

しかし、日本にもまた、かつて「奴隷」のような人は、存在をしていました。

律令制度の中には「奴碑」と呼ばれる人たちが居て、これは奴隷のような人たちだったよう。

「公奴碑」が、国に使われる「公の奴隷」で、「私奴碑」が、個人が所有して使われる「私的な奴隷」だったよう。

 

律令制度が無くなり、奴碑もまた、無くなったのでしょうが、個人に所有される奴隷に近い人たちは存在をしていました。

それは「下人」などと呼ばれる人たち。

「人権」という概念が無い時代、人間もまた「動産」として扱われ、人間の売買は、日本の社会でも、当たり前に、行われていました。

そして、当然、裕福な人、権力者は、人間を所有している訳で、これもまた奴隷のような存在と言えるでしょう。

過酷な労働に従事させるのか、それとも、他の家族と同じように扱われるのか、それは、下人を所有する主人の意向によるものだったのではないでしょうかね。

 

戦国時代、戦国大名たちが合戦をしますが、この合戦に参加をする兵士たちの大きな目的が「乱取り」です。

この「乱取り」は、兵士たちが、周辺地域の村々を襲い、家畜、その他、金になりそうなものを奪い取って行く。

そして、人間もまた、「乱取り」の対象で、合戦があれば、多くの人間が、周辺地域から連れ去れれることになる。

連れ去られた人間は、連れ去った者が「下人」として使うか、また、売買の対象になります。

ちなみに、当時、日本に来ていたキリスト教の宣教師たちは、この売買によって日本人を買い、それを、海外に奴隷として売っていたそうです。

当時、日本人奴隷が、かなり、世界各地に広がっていたよう。

豊臣秀吉が、「伴天連禁止令」を出したのは、この「日本人が、奴隷として、宣教師によって海外に売られている」という状況を懸念したというのが理由の一つ。

 

時代劇を見ていると、病弱な男が、借金のカタとして、妻や娘を、家から強引に連れ去れらるという場面が、昔は、よくあった印象。

これは、今の視聴者からすれば「妻や娘を、借金のカタに連れて行くなど、酷いことだ」と思いますが、当時の感覚からすれば、妻や娘を借金の担保としてお金を借りていた場合、借金を返せなければ、妻や娘の所有権が、債権者に移るのは当たり前の話、と、言うことになる。

そして、そういうことは、当たり前に可能だった。

 

次に、いわゆる「部落差別」について。

 

この問題は、かなり薄れて来たとは言っても、現在でも、未だに、続いている問題。

それは、かつて「えた」と呼ばれた人々に対する差別ということになる。

 

この「えた」と呼ばれた人々。「穢多」という漢字から、「穢れ」の思想から生まれたものと言われることがありますが、それは、定かではないようですね。

元々、「えた」と呼ばれる人たちが居て、その後、「穢多」という漢字が当てはめられたという話のよう。

この「えた」と呼ばれた人たちが、いつから、どのような経緯で生まれたのかは、確かな史料が無いので、分からないということのよう。

しかし、鎌倉時代の史料には、すでに登場をするようですね。

 

この「部落差別」については、よく「江戸時代に、士農工商の下に、えた、非人という被差別身分が作られ、その影響で、今でも部落差別が残ることになった」と言われることがあるようですが、それは、間違いです。

江戸時代よりも、遙か以前から、「えた」と呼ばれる人たちは存在をして、江戸時代に、それが新たに身分として作られた訳ではない。

 

この差別に関しては、外国人は、とても奇妙に思うようですね。

「なぜ、同じ人種、同じ民族の中で、差別が存在をするのか」

これは、外国人にとって、とても不思議なことのよう。

そして、僕が、日本での「差別」について関心を持ったもの、これが、理由の一つでもある。

 

江戸時代、関東で、この「えた」身分の頂点にあったのが「弾左衛門」という人物です。

この「弾左衛門」については、同じ著者の、この本に詳しい。

 

 

とても、興味深い本でした。

当時、関東、江戸で「えた」と呼ばれた人たちが、どのような境遇にあり、どのような生活をしていたのか。

 

時代劇のドラマや映画で、この「えた」と呼ばれる人たちが出て来ることはないですよね。

しかし、彼らもまた、江戸の町でも生活をしていた。

彼らが、そこで、何をしていたのかと言えば、今で言えば「公共の福祉」に関する仕事です。

町や川などの清掃、地域での治安維持活動、身よりの無い老人や身体の不自由な人などの介護、動物などの遺体の片付け、などなど。

また、罪人の処刑に関する仕事などもそう。

ちなみに、弾左衛門は、「えた」ではなく「長吏」と称していました。

 

そして、町を離れれば、田畑を所有する「えた」の人たちも居ました。

豪農のような裕福な人も居たようです。

 

実は、「えた」と呼ばれた人以外にも、被差別身分の人たちは、多く居ました。

そして、彼らは、「差別」をされているからといって、必ずしも、「貧しい」という訳ではありません。

関東で「えた」の頂点に立つ弾左衛門は、大名のような屋敷に住み、生活をしていたそうです。

また、江戸時代を通じて、日本の人口は横ばいだったようですが、被差別民の人口は上昇しているということのよう。

これは、つまり、他の農民などよりも、被差別民の方が、裕福だった可能性を示しているようです。

 

実は、被差別民の人たちが、なぜ、差別をされているのかと言えば、理由の一つに「職業」があります。

逆に言えば、「職業」によって差別をされているということは、その「職業」を独占出来たということでもある。

つまり、被差別民には、安定をした仕事があり、そこから安定をした収入もあった。

その中から、富豪のような被差別民も生まれることになる。

 

もっとも、生活が豊かだから、安定をしているからといっても「差別」をされるということは、非常に辛いことです。

徳川慶喜が、大政奉還をしたことによって徳川幕府は消滅しますが、その時に、江戸の弾左衛門が、まず、訴え出たのは「差別をやめてください」ということだったよう。

 

さて、徳川幕府が倒れ、明治時代になり、「解放令」が政府から出され、制度としての「えた」「非人」は無くなります。

これは、個人的に、欧米の思想から「平等」の思想が日本に入って来たためと理解をしていましたが、「差別の日本史」によると、どうも、そうではないようです。

 

実は、江戸時代まで、「えた」を始め、被差別民の人たちは、社会システムから排除をされた存在でした。

しかし、明治時代になると、そこに大きな問題が存在をすることになる。

彼らが、社会システムから排除をされたままでは、税金を取ることも出来ない、そして、徴兵をすることも出来ない。

つまり、彼らを、日本国の国民として認め、他の人たちと同じように税金を取り、徴兵を課すために「解放令」が出されたということのよう。

 

しかし、この「解放令」が出されたことによって、今度は、社会の一般市民が混乱をすることになる。

江戸時代までは、「差別」は当たり前に存在し、その「差別」を守ることが社会の安定に繋がるというのが常識だった。

つまり、身分による「差別」を守ることが社会倫理だったということなのでしょう。

それが、突然、「みんな同じ」と言われても、戸惑うのは当然だったのでしょう。

 

そして、この「解放令」によって、これまで、独占的に行うことが出来ていた仕事が被差別民から奪われ、困窮をする人たちも増えて行ったということ。

 

そして、差別意識は、社会の人たちの中に残り、それは、今でも、完全に消えさっていない。

 

さて、明治時代に残っていた、かつて「えた」と呼ばれた人たちへの差別を書いた物語が、島崎藤村の「破戒」です。

 

 

タイトルの「破戒」とは、「戒(いましめ)を破る」ということ。

この「戒(いましめ)」とは何かと言えば、主人公が、父から言われた「自分の出身地を、絶対に、他人に話してはならない」というもの。

なぜなら、その出身地から、自分が、かつて「えた」と呼ばれた身分の血を引く人間であることが世間に知られ、周囲から、強い差別を受けることになるから。

 

この小説は、今でも、普通に本屋で売られ、誰もが、手軽に読むことが出来ますが、個人的には、「差別」について何の知識も無い人が、この小説を読むのは、危険なことなのではないかとも思うとことです。

逆に、読者が、おかしな差別意識を持つことにならないか。

 

そのため、この文庫本の最後には、詳しい解説がつけられている。

しかし、果たして、それで、理解が出来るものなのかどうか。