大河ドラマの関連本を読んでいて、面白いことが一つ、分かりました。

それは、藤原道長の兄、道隆の子、「藤原隆家」という人物。

この藤原隆家は、兄の伊周と共に、藤原道長との権力争いに敗れることになる。

しかし、この藤原隆家は、優れた政治手腕の持ち主だったようで、太宰府で、太宰権帥として善政を敷き、地域の信望を集めたようです。

そして、武人としても優れた力量を持っていたようで、あの「刀伊の入寇」では、日本側の総指揮官として、刀伊を撃退することになる。

そこで、この本を読んでみましたが、なかなか、面白かったです。

 

 

まず「刀伊」とは、何か。

この「刀伊」とは「東夷」のことで、何から見て「東夷」なのかと言えば、それは、朝鮮半島から見て、と、言うこと。

この「刀伊」とは、朝鮮半島と大陸が繋がる辺りの東方を居住地域としていた「女真族」のことです。

この「女真族」は、後に「金」という国家を建設したり、中国を征服して「清帝国」を建国することになりますが、当時は、まだ、国を持っていなかった。

この女真族は、「渤海」という国が滅びた後、その地域を治めた「契丹」という国の支配下に置かれ、「契丹」そして、新羅が滅びた後、朝鮮半島に建国された「高麗」によって圧迫を受け、大規模な海賊行為を行うことになります。

そして、朝鮮半島東部で、海賊行為を繰り返していた女真族は、ついに、日本の対馬、壱岐に襲来、そして、九州を襲うことになります。

これが「刀伊の入寇」です。

 

寛仁3年(1019)3月28日、50艘を超える刀伊の海賊船が対馬に襲来。同日、壱岐にも襲来する。

4月7日、刀伊の襲来の一報が、太宰府に届く。同日、刀伊の海賊船は、筑前沿岸に姿を現し、怡土、志摩、早良の三郡に侵攻。

4月8日、那珂郡能古島に刀伊が上陸。能古島の南にあった博多警固所を中心に、日本軍は刀伊と戦うことになる。

4月12日、刀伊軍、日本軍との間で、激戦。日本軍は、刀伊軍を破る。

4月13日、刀伊、肥前国松浦郡に侵攻。日本軍は、それを撃退し、更に、追撃にかかる。

 

以上が、「刀伊の入寇」の経緯となります。

 

この時、まだ「武士」と呼ばれる人たちは、日本には居ません。

ならば、この「刀伊の入寇」で、刀伊と戦い、撃退をしたのは、どのような人たちだったのか。

 

元々、日本は、中国の「唐」をモデルにした「律令国家」でした。

この「律令国家」で、国の軍事力になるのは、「徴兵」によって集められた「軍団」と呼ばれるもので、主力になるのは「歩兵」でした。

しかし、平安時代にはいると、この「律令制」は、次第に、形骸化が進み、機能をしなくなってしまう。

そのため、「徴兵」も困難になり、「軍団」も編成されなくなる訳で、そこで、登場をして行くのが、独自に武装をし、武力を身につける人たち。

彼らは「兵(つわもの)」「武者」と呼ばれることになります。

平安時代、「律令国家」から「王朝国家」に変化をして行く中で、国の軍事力は、彼らによって担われるように変化をして行く。

つまり、「武力」の「請負」です。

 

この「武力」の「請負」の大きなきっかけになったのが「承平天慶の乱」です。

東国で平将門、西国で藤原純友が、大規模な反乱を起こす。

この平将門、藤原純友の乱の平定に活躍をした人たちが、「武力」を持って権門に奉仕をする役目を、代々、受け継ぐことになる。

刀伊の撃退にも、藤原純友の乱の平定に活躍をした人の子孫たちが参加をしている。

 

もっとも、それだけではなく、地方に土着をし、独自に武力を蓄える人たちも居た。

彼らは「住人」と呼ばれたそうで、この「住人」系の「武者」たちが、刀伊の撃退に活躍をする。

 

そして、太宰府に直属をする「武者」たちも居る。この中には、藤原隆家に直属をして都から同行をして来た武者たちも居た。

 

刀伊の襲来を撃退したのは、彼らの混成軍です。そして、総指揮を執ったのが、太宰権帥として、九州の最高権力者だった藤原隆家ということになる。

 

彼ら「兵」「武者」たちの戦いは、馬に乗ること、そして、弓を射ることが主だったようです。

弓には、それを射る人の名前が記されていたそうで、誰が、どのような手柄を挙げたのかが分かるようになっていたそう。

面白いのは、日本の武者たちが射る「鏑矢」が、大きな効果を発揮したそうです。

この鏑矢の発する音に驚いて、逃げる刀伊も、多く居たということ。

 

この、日本が「刀伊の入寇」を撃退することが出来たのには、一つの理由がありました。

それは、九世紀後半、王朝末期を迎えていた朝鮮半島の「新羅」から、「新羅海賊」と呼ばれる人たちが、度々、日本の沿岸に襲来し、その備えが進んでいたこと。

刀伊を迎え撃つ拠点となった「博多警固所」は、この新羅海賊に対処するために、各地に設けられた「警固所」の一つだったよう。

また、同じ頃、東北地方では、「蝦夷」との戦いが続いていましたが、朝廷に降伏をした蝦夷、つまり「俘囚」と呼ばれる人たちが、集団で、日本の各地に強制移住させられていたことは、以前、読んだ本で知っていましたが、これには、「馬」に乗る技術、「弓」を射る技術に優れた俘囚を、軍事力として使おうという意図があったということ。

ちなみに、この「新羅海賊」や「蝦夷」との戦いの軍事力になったのは、「律令制」での「軍団」でした。

この「軍団」による戦闘では、「個人の手柄」というものは考慮されることはない。

 

さて、九州沿岸から撃退された刀伊の海賊たちは、朝鮮半島沿岸を荒らしながら本拠地に撤退しようとしましたが、そこで、準備万端に整え、刀伊の海賊を待ち構えていた高麗の水軍によって撃破されることになる。

この時、刀伊が略奪をしていた日本人捕虜たちの多くが、高麗に保護されることになる。

実は、この一時、刀伊の捕虜になっていた人たちの証言から、「刀伊」の実態を、日本は知ることになる。

 

さて、この「刀伊の入寇」で、刀伊を撃退し、手柄を挙げた「兵」「武者」たち。

彼らには、当然、恩賞が出る訳ですが、実は、これは「当然」という訳でもなかったそうです。

理由は、この「刀伊の入寇」を知らせる書状が京の都に届いた時、すでに、刀伊は撃退をされていた。

つまり、この時に発揮された軍事力は、朝廷の命令によって行われたものではない。

そのため、朝廷では「恩賞を出す必要はない」という意見が出たそうです。

しかし、藤原実資が、新羅海賊の時の先例を出し、「当然、恩賞は出すべきである」という主張をしたため、それが認められ、恩賞を出すことになったよう。

 

そして、この時、まだ武者たちは、後の「武士」のように「土地」を所有している訳ではない。

そのため、恩賞となったのは「官職」です。

この「刀伊の入寇」で手柄を挙げた武者にも「官職」が、恩賞として与えられたよう。

 

この「刀伊の入寇」が起こった時期は、「律令制」が機能不全となり、日本の軍事力だった「軍団」が消滅し、その後、日本で軍事力を担う「武士」が登場をする狭間に起こった事件ということになる。

そして、その頃、独自に「武力」を身につけた「兵(つわもの)」「武者」と呼ばれる人たちが登場し、彼らが、「公の武力」を請け負うことになる。

彼ら「兵」「武者」を束ねる人たちとして、「承平天慶の乱」で活躍をした貴種に源流を持つ人たちが、「軍事貴族」として台頭。

源経基を祖とする「清和源氏」の一族、平貞盛を祖とする「桓武平氏」の一族、藤原秀郷を祖とする「秀郷流藤原氏」など。

ちなみに、この「軍事貴族」とは、学術上、便宜的に名付けられたもので、当時、そういう人が居たという訳ではないということのよう。

 

「承平天慶の乱」については、またの機会に。