さて、昨日の話の続き。

勝海舟の評価をおとしめようという意図で、文章が書かれる時、いくつかの傾向があります。

その中の一つが、「船乗り」としての勝海舟を批判するもの。

昨日のブログでも書いた「咸臨丸」に関する話も、その中の一つ。

 

具体的には、「勝海舟は、船乗りとして有能ではなかった」また「勝海舟は、艦長としては不適格だった」というもの。

これは、「幕府海軍」に関するものを読んでいる時に、よく出て来る印象です。

 

それは、もう随分と昔に読んだことの本にも出て来ました。

 

 

この本は、タイトルの通り、「長崎海軍伝習所」についてのもの。

本としては、とても面白かったのですが、勝海舟について書かれた部分には、納得の行かないところもありました。

この本を読んだのは、恐らく、30年ほども前の話。

細かい本の内容までは、よく覚えていないところ。

しかし、興味深いところは、色々と記憶に残っている。

 

さて、この「長崎海軍伝習所」について。

 

幕末、欧米列強の圧力を受け、開国に舵を切った幕府ですが、海軍力の強化と、その軍艦に乗るための人員を育てることは急務でした。

そして、幕府は、長年の付き合いのあるオランダから、軍艦を購入し、その乗組員を訓練するために、オランダから教師を招き、伝習所を作ることを決定する。

それが、「長崎海軍伝習所」です。

 

設立をされたのは安政2年(1855)。

オランダは、教師を派遣するとともに、「観光丸」を幕府に寄贈し、伝習所で、練習船として使われることになる。

また、幕府は、「咸臨丸」「朝陽丸」の同型艦、二隻をオランダに発注。

この二隻も、完成後、伝習所で練習艦として使われることに。

 

この長崎海軍伝習所では、操艦技術だけではなく、幅広く、西洋の学問が、オランダ人教師によって教えられたそう。

また、伝習生は、幕臣に限らず、諸藩からも受け入れられ、特に、佐賀藩は、多くの藩士を生徒として送り込み、西洋の技術、学問を学ぶことになる。

 

勝海舟は、この長崎海軍伝習所の一期生です。

実は、勝海舟は、海軍の整備の重要性を幕府に訴えていたものの、自分が軍艦に乗ることは想定していなかったようで、自身が長崎海軍伝習所に派遣されることに不満を漏らす書状が残されているよう。

この時、勝海舟に与えられた役割は、伝習生たちを監督する立場だったよう。

そして、勝海舟と同じ役割で一緒に派遣されていたのが、矢田掘景蔵という人物。

 

この「勝海舟」「矢田堀景蔵」の二人が、徳川幕府海軍の実務の中心となる。

ちなみに、徳川艦隊を率いて、江戸を脱走することになる榎本武揚は、長崎海軍伝習所の二期生です。

 

安政4年(1857)、幕府は、築地に「軍艦操練所」を作り、矢田堀景蔵を始め、多くの幕府伝習生を、軍艦操練所に移します。

ちなみに、この時、勝海舟は、長崎に残ります。

そして、翌年、長崎海軍伝習所は、閉鎖をされることになる。

 

さて、勝海舟が、長崎で、何をしていたのか。

それは、勝海舟に関する、色々な本に書かれています。

特に、オランダ人と直接、接することが出来、彼らの話を聞くことが出来たということは、勝海舟に、大きな影響を与えたようです。

 

その中で、面白いエピソードを、一つ。

 

当時、目的もなく、町を歩く「散歩」という習慣は、日本には無かったようですね。

そして、勝海舟は、長崎で、オランダ人に、この「散歩」をすることを勧められたということ。

この「散歩」をすることで、町の風景や、人々の雰囲気を知ることが出来る。

そして、それが、政治の役に立つ。

それから、勝海舟は、この「散歩」を、各地で続けたそうです。

町の中を歩き回り、情報を集めたということ。

 

さて、冒頭で書いた、

「勝海舟は、船乗りとして有能ではなかったのか」

「勝海舟は、艦長として不適格だったのか」

という問題。

 

船乗りとして優秀だったのかどうかという話は、当時、西洋の軍艦に乗る「船員」として、日本人という人たちは、かなり、不適格だったようですね。

そもそも、船員としての「常識」を、日本人に教えるのに、オランダ人教師たちは、とても苦労をしたという話。

それでも、なかなか、船員としての常識を身に着けるまでには行かない人も多かったよう。

船員としてのレベルは、ピンからキリまで、色々な人が居たということになるのでしょうが、勝海舟に求められていたのは「生徒たちのリーダー」であり、つまり、船員たちを率いる「艦長」の役割ということになる。

船員として、一通りのことは頭に入っていたのでしょうが、その熟練かと言えば、そうではなかったということになるのではないでしょうかね。

それは、それで、当たり前の話で、敢えて「勝海舟は、船員として有能ではなかった」と言うのは、わざわざ、書く必要の無いこと。

それを、わざわざ、指摘するということは、勝海舟の評価を落とそうという意図があるのではないかと考えられる。

 

そして、その「艦長」としての勝海舟は、どのような人物だったと言えるのか。

 

恐らく、勝海舟という人物の性格からして、「人望」というものは、あまり無かったのではないかと想像します。

しかし、「人望」が無いからといって「艦長」として不適格なのかどうかは、別の問題。

恐らく、人望の無い勝海舟は、船員から、あまり良くは思われてなかったのでしょうし、もしかすると、勝海舟を悪く言う証言も残っているのかも知れない。

しかし、これによって「艦長」として不適格だと判断をするのは、間違いでしょう。

 

問題は、その時、その時の状況に応じて、適切な指示を出すことが出来るのかどうか。

これは、恐らく、個別具体的な状況が、記録として残されている訳ではないでしょうから、判断をすることは出来ない。

しかし、勝海舟の本には、よく、艦が暴風雨に巻き込まれ、困難の中、勝海舟が、身体を張って、先頭に立って指揮を執る様子が登場します。

これを見れば、艦長として不適格だったとは思えない。

 

当時、多くの日本人が、西洋風の軍艦に乗る船乗りとしては、未熟だった。

勝海舟が、船乗りとして、艦長として、未熟だったとしても、それは、当たり前で、敢えて、指摘をするようなものでもない。

と、個人的には、思うところです。