平賀源内という人。

名前を知っているという人は、結構、多いのではないかと思います。

しかし、平賀源内が、何をした人なのかと聞かれれば、恐らく、多くの人が「エレキテルを作った人」というイメージくらいしか無いのではないでしょうかね。

 

 

平賀源内について、詳しく知りたいと思い、この本を読みました。

本の内容としては、平賀源内の人生というよりも、源内の仕事内容、そして、その周辺事情に、多くの分量がさかれ、しかも、かなり饒舌に著者の思いを語る文章になっているので、本を読み慣れない人にとっては、かなり、読むのが億劫になる内容かも。

 

この本の年表から、平賀源内の略歴を紹介します。

 

平賀源内は、享保3年(1728)、今の香川県志度に生まれます。当時は、讃岐国高松藩の領内。幼い頃から聡明で、お酒を備えると絵に描かれた顔の色が赤く変わる「おみき天神」と呼ばれる掛け軸を作っています。

22歳で家督を継ぎ、高松藩士として仕事をすることになりますが、身分は低かったものの、その才能は、藩主、松平頼恭に認められ、目をかけられていたよう。

25歳の時、長崎に遊学をしたようですが、それに関する史料というものは、全く、残されていないようで、詳しいことは、何も分からない。後に、この時に長崎で見たのであろう「万歩計」や「方位磁石」を制作しているそう。

しかし、源内には、藩士という立場は、不自由だったのか、27歳の時に、妹に婿を取らせ、家督を譲り、高松藩士という立場を捨てます。

そして、源内は、29歳の時に、江戸に出ます。江戸で、田村元雄という人物に入門をするのですが、この田村元雄は、「本草学」の専門家。

 

この「本草学」は、平賀源内という人物にとって、いわば、生涯を通じた「本業」です。

では、この「本草学」とは、何なのか。

 

本草学とは、そもそも「薬草」の研究から始まった学問だそうです。

どのような薬草に、どのような効果があるのか。

そして、この「薬草」の研究から、「植物」全般に研究対象は広がり、更に、研究対象は「生物」一般に広がり、更に、「鉱物」にも、研究対象は広がります。

つまり、この世界に存在する、ほぼ、全てのものを研究対象にしたのが「本草学」、今で言う「博物学」のようなもの。

 

田村元雄に入門をした源内は、ある提案をします。それは、全国から、珍しいものを一同に集め、その物質が何なのか、その物質に、どんな性質があり、どのような役に立つのかを、みんなで品評しようというもの。

つまり、今で言う「物産展」のようなものです。当時は「薬品会」と言ったよう。

そして、それは、実行に移され、定期的に開催されるようになる。

これで、平賀源内は、「本草家」として、一躍、世間に名を上げることに。

 

そして、高松藩主、松平頼恭は、再び、源内を召し抱えることに。頼恭は、よほど、源内の才能を気に入っていたよう。しかし、源内にとって、やはり、藩士という立場は窮屈だったようで、間もなく、再び、家臣を辞めたいと申し出、許可されます。

 

34歳の時、幕府の命令により、伊豆で、「芒硝」を発見。この「芒硝」とは、硫酸ナトリウムのことで、日本には存在をしないと思われていたもの。漢方薬として使われたりするそう。ガラスの原料にもなるようです。

そして、36歳の時、戯作者としてデビュー。デビュー作の「根南志具佐」、続く「風流志道軒伝」が、大ヒット。

37歳の時、秩父で「石綿」を発見。この石綿で「火浣布」を制作し、幕府に献上。

そして、源内は、秩父で「鉱山開発」に乗り出します。

41歳の時、「寒暖計」を制作。

43歳の時、「神霊矢口渡」で、浄瑠璃作家としてデビュー。再び、長崎へ。

翌年、「陶器工夫書」を天草代官に提出。この頃、「西洋婦人図」を描いたか。

45歳、江戸に戻る。

46歳、中津川で鉱山開発。そして、鉱山開発のため、秋田藩に招かれます。

源内は、この秋田藩で、秋田藩主、佐竹曙山、秋田藩士、小田野直武に出会います。

源内は、画才の豊かなこの二人に、西洋画の技法を伝授。「秋田蘭画」と言われる独自の絵画が、二人によって描かれることに。

49歳、「エレキテル」の復元に成功。

52歳、人を殺傷し、間もなく、獄中で、死去。

 

平賀源内は、多才な能力の持ち主ですが、やはり、その中心にあったのが「本草学」です。

源内の生涯の目標は、この「本草学」から、日本のあらゆる物産を網羅して「日本物産誌」のようなものを著述、編纂することだったよう。

そのために、貴重で、高価な、オランダから輸入をされた洋書を、何冊も買い求め、それを参照にしようとしたよう。

しかし、源内は、オランダ語が読めない。

二回目の長崎行きは、このオランダ語の解読が目的の一つだったようですが、どういう理由か、源内は、早々に、それを諦めることになる。

やはり、源内ほど聡明な人間でも、何も無い状態からオランダ語をマスターするというのは、不可能に近い話だったのでしょう。

 

ちなみに、平賀源内の親友とも言える杉田玄白は、同時期に、「ターヘルアナトミア」を入手し、仲間と共に、そのオランダ語の解読に成功。「解体新書」を出版することになる。

ちなみに、この「解体新書」の挿絵を描いたのは、秋田から江戸に来て、源内に弟子入りしていた小田野直武の描いたもの。

 

源内は、西洋画にも強い関心を持ち、その顔料の研究、製造などもしている。

源内が描いたと言われる婦人の西洋画がありますが、実は、この絵は、「源内」という署名があるものの、確かに、源内が描いたという確証は無いようです。

 

また、「錦絵」の創始者として有名な鈴木春信。

この鈴木春信と源内は、ご近所同士で、親しく交流があったそう。

この「錦絵」の誕生には、源内のアイデアも含まれているのではないかと推測されるようです。

そして、この「錦絵」から「浮世絵」が誕生をすることになる。

ちなみに、日本で最初の「銅版画」を制作した絵師、司馬江漢は、源内の弟分のような存在だったそう。

源内は、日本の絵画の発展にも、大きな影響を与えている。

 

さて、本業である「本草学」での挫折は、源内に、大きな変化をもたらしたようですね。

そして、源内の挫折は、それだけではない。

源内は、いくつかの鉱山開発に手をつけていますが、どれも、結局、失敗に終わったよう。

また、天草で見つけた良質の土で、陶器の製造、販売をしようとしたものの、これは協力者が無く、挫折。

また、羊毛を使って産業を興そうともしたようですが、これも挫折。

そして、石綿による「火浣布」もまた、商売にしようとして失敗。

 

源内には、自分の能力を「国益」のために使いたいという大きな夢があったようですね。

本草学を始め、これら、産業を興そうと活動をしていたのも「国益」のため。

しかし、多くが、失敗に終わってしまった。

 

自分の能力を生かせない。周囲の人は、自分を理解してくれない。

 

そして、源内は、異常な言動を見せるようになり、ついに、人を斬ってしまうことに。

 

さて、今、平賀源内の代名詞のようになっている「エレキテル」ですが、これは、源内が発明をしたものではなく、正確には、長崎に行った時に、壊れたエレキテルを見つけ、貰って来たもの。

もちろん、その仕組みや、構造を、源内は最初から知っていた訳ではなく、試行錯誤をしながら、復元に取り組み、成功をしたということ。

「万歩計」「方位磁石」「寒暖計」など、オランダ人の持っているものを見て、即座に、その仕組みを見抜いて理解し、再現をすることが出来る才能を、源内は持っていた。

この「エレキテル」は、源内が復元をした実物が、今も保管をされているそうですね。

一度、見てみたい。

 

さて、源内には、二度目に、高松藩士を辞した時、藩主の松平頼恭から「奉公構」をされたと言われています。

この「奉公構」とは、今の藩士の身分を捨てる代わりに、他の藩の藩士になってはならないというもの。

つまり、自分の家臣を辞めるなら、他の主君に仕えることは許さない、と、言うもの。

しかし、この本の著者は、「源内は、奉公構をされた訳ではないのではないか」と考えているようです。

なぜなら、源内自身が「自分が奉公構をされた」と、一度も、話したことが無いということ。

また、源内の生きた時代に「奉公構」は、様々な事情から、意味を持たないのではないかということのよう。

それは、そうなのかも知れないと思うところ。

 

この本の中で、個人的に、面白いと思ったエピソードが、一つ。

 

ある人物が、仲間と二人で、源内の家を訪ねて来ます。

その時に、一人が、源内に「女性の水死体も『土左衛門』と言いますが、他に、良い言い方は無いですかね」と、言ったよう。

すると、源内は「女性だって『助兵衛』と言うじゃないか」と答えたということ。

 

確かに、その通り。

頭の回転が速く、機転がきく、源内の面白いところです。