玉野市で、一番、大きな古墳である「孫座古墳」を見に行ってみました。

田井地区、清水川を、宇野線の下をくぐり、西へ歩く。

すると、このような看板がありました。

 

この看板の通り、左に入る。

 

次の道しるべ。

 

次の道しるべ。

 

道しるべの先、ここから、山を登ります。

正面にも、道しるべが見えます。

足下には、大量の落ち葉があり、とても、滑りやすい。

 

こちら、道しるべ。

 

少し、山を登ると、このようなものが。お墓という訳ではないような気がします。

 

そして、その少し上には、小さな石仏が置かれていました。

 

そして、更に、少し、山を登ると、古墳に到着。

このような説明板が設置されていました。

 

こちら、孫座古墳です。

山の中腹、丘になっている上に作られています。

門がつけられているのが、石室の入り口です。

狭くて、中をのぞき込むのは、無理でした。

 

石室、入り口。

 

円墳のようですが、形は、かなり、崩れていますよね。

 

さて、孫座古墳について。

 

この古墳が作られたのは、六世紀の末頃だそう。

横穴式石室を持つ。

墳丘の経は、12メートル。

石室は、長さ、3メートル、幅、2.7メートル、高さ、1.8メートル。

羨道部は、長さ、1.7メートル、幅、1.5メートル。

見た感じ、それほどの規模があるとは思えない。

門が無くても、あまりにも狭くて、中に入ることは出来ないでしょう。

崩れた土砂で、中が埋まっているということなのでしょうかね。

 

この古墳に葬られたのは、田部の長か、児島屯倉の役人か、定かでは無い。

副葬品は、すでに盗掘にあっていて、残っていないそう。

しかし、この孫座古墳から出土したと言われているものが、いくつか、保管をされているそうです。

 

須恵器、1。蓋付き壺、1。提瓶、3。蓋付き杯、2。蓋なし杯、5。はそう、1。製塩土器、1。鉄器(馬具)、1。

 

これらは、明治の末年に、この古墳から発掘されたものを、その出土品を保管していた子孫の方が、市に寄贈をしたそうです。

この出土品の中には、製塩土器もあり、埋葬されたのは製塩集団の族長だった可能性もあるということ。

 

玉野市の古墳をネットで調べてみると、多くが、開発の途中で見つかり、調査の後は、開発によって消滅をしている。

こうやって、墳丘、石室が、残されているのは、玉野市では、なかなか、貴重ということになる。

 

玉野市は、古墳が作られた当時、児島という島で、巨大な古墳を作ることが出来るような大きな権力者は存在をしなかったのでしょう。

しかし、ある程度、権力を持つ者にとって古墳を作ることはステイタスだったのでしょうから、その時、この地域に住んでいた集団の権力者が、この場所を選び、多くの人を使って、この古墳を作ったということになる。

 

それを想像すると、なかなか、面白いです。