散歩がてら、自転車で、日比港へ。

今日は、午後から雨予報ですが、今は、良い天気です。

 

さて、日比港に注ぐ小さな川の河口付近に、お地蔵さんがあります。

以前から気になっていたもので、見に行ってみました。

 

それが、こちら。

二体のお地蔵さんと、石版が一つ、見えます。

 

近づいて見ました。

お花が、供えられていますね。

 

こちら、石版です。

「出雲」「昭和十年」「一畑薬師堂泰安所」「眼病平癒」などと書かれているのが見えます。

 

こちらは、真ん中のお地蔵さんの台座。

「文久元年」「五月」と書かれているのが読めます。

幕末の頃ですね。

 

日比の住宅地を走っていると、このようなものがありました。

「大東亜戦争大詔渙記念」「昭和十六年十二月八日」と書かれているようです。

まさに、太平洋戦争開戦、真珠湾攻撃の日。

想像をすると、この石柱は、その日に置かれたものではなく、その日、真珠湾攻撃の大勝利に興奮したこの地域の住民の人たちが、それを記念して、すぐにこの石柱の製作にかかり、置かれたものではないでしょうかね。

当時、日本国民は、戦争に熱狂し、支持をしていたよう。

もちろん、その後の、悲惨な、悲劇の戦争になることは、誰も知らない。

 

こちら、日比港、西岸からの風景。

正面に見えるのは、左は「地蔵山」、真ん中、低くなり、その右手の二つに連なるのが「城山」です。

この地蔵山と城山は、つながっている訳ではなく、間に平地があります。

写真では、分からないですが、二つの丘が連なる「城山」は、その右手の山とも独立をしています。

 

さて、この城山は「四宮城跡」でもあります。

かつて、この日比を支配していた「四宮氏」が拠点を置いた場所。

 

以前、読んだ本によると、この四宮氏は、もともとは、信濃国に居たそうで、そこから、何らかの事情で、淡路島、阿波国に移り住み、細川氏の支配下に入る。

そして、細川氏が、備前国児島を支配したことで、四宮氏は、この備前国児島の日比に移り、拠点を置いたそうです。

ちなみに、備前国東端の小串城に拠点を置いた高畠氏も、もともとは、細川氏の支配下に居て、四国から渡ってきた一族だそう。

備前国児島は、四国の細川氏の影響力が大きかったということですね。