大鳥圭介の率いる旧幕府脱走歩兵の話は、以前、書きましたが、今度は、古屋佐久左衛門と、「衝鋒隊」の話をします。

ちなみに、大鳥圭介と、戊辰戦争については、こちら。

 

まずは、古屋佐久左衛門について。

ウィキペディアから。

 

天保4年(1833)、筑後国御原郡古飯村の庄屋の次男に生まれる。

嘉永4年(1851)、医学を学ぶため、長崎、大坂に行くが、自分は医学に向かないと判断し、江戸で、洋学を学ぶ。

幕府外国奉行の旗本、川勝広道に洋学の才能が認められ、安政4年、御家人の古屋家に婿養子に入る。

文久元年(1861)、神奈川奉行所の運上所の定役となる。宣教師や、ヘボンから、英語、洋学を学ぶ。

この頃、古屋は、日本人の子供が、イギリス人の乗る馬に蹴られて怪我をしたため、その親に代わり、イギリス領事と交渉し、治療代を払わせることに成功する。

元治元年(1864)、幕府の英学所教授方に任命される。

慶応2年(1866)、歩兵指図役に任命される。

慶応3年(1867)、横浜から伝習隊が江戸に移ると、古屋もまた、歩兵の訓練にあたることになる。

 

古屋佐久左衛門は、横浜で、イギリス軍から兵学を学び、沼間慎次郎らとともに、イギリス式兵学の書の翻訳もすることになる。オランダ語、ロシア語も習得し、剣術、砲術にも長け、まさに、文武両道の秀才。

洋学者として多くの門弟を持ち、他藩のイギリス式兵学の指導にも当たったということ。

 

さて、以下、この本から、古屋佐久左衛門と衝鋒隊の戊辰戦争を紹介します。

 

 

鳥羽伏見の戦いで、指揮官を失った第11連隊、第12連隊。

彼らは陸路を江戸に戻り、1月下旬、江戸、三番町の歩兵屯所に戻る。

慶応4年(1868)2月7日、夜、当直将校を射殺し、第11連隊、第12連隊の歩兵が脱走する。

脱走歩兵たちは、沿道を荒らしながら、会津方面を目指す。

 

勝海舟の命令を受け、古屋佐久左衛門、今井信郎が、脱走歩兵を追いかける。

古屋は、野州佐久山で脱走歩兵に追いつき、何とか、帰順をさせ、武州忍藩に脱走歩兵を預ける。

2月24日、江戸に戻った古屋は、歩兵頭並格に昇格。信州中野陣屋、その他、24万石の幕府直轄領の鎮撫を命じられ、歩兵第6連隊600人を与えられる。

3月1日、古屋は、鎮撫隊500人とともに、江戸を出発。忍藩の行田で、梶原雄之助の引き入る第11連隊、第12連隊の脱走歩兵370人が合流。野州羽生陣屋で、第1大隊、第2大隊、中軍に編成。

3月9日、古屋の率いる脱走兵は、新政府軍の東山道軍の先鋒と梁田(足利市)で戦闘。完全な新政府軍の奇襲攻撃となり、古屋軍は、応戦も出来ずに大敗。古屋軍は、東に向かい、藤原、五十里(栃木県藤原町)を経て、3月22日、会津若松に到着する。

3月25日、古屋は、部隊を「衝鋒隊」と命名する。

 

4月1日、衝鋒隊、越後国新潟に入る。

4月4日、古屋は、柏崎に、中小、11の藩の代表を集め、「北越同盟」への加入を迫る。

4月11日、与板藩から7000両を強奪。

4月24日、松代藩兵ら、新政府軍と戦闘中、飯山藩の裏切りによって、敗北。

4月26日、新政府側についた高田藩から夜襲を受け、敗北。散り散りとなった歩兵たちだが、再び、集結。中野陣屋に向かうことを諦める。

5月6日、河井継之助の長岡藩が、列藩同盟に参加。新政府軍と戦う決断をする。

5月11日、朝日山での戦闘に、長岡藩兵と共に参加。新政府軍に勝利。

5月19日、新政府軍の攻撃により、長岡城が陥落。

6月16日から19日まで、長岡の北方、川辺、十二潟で、新政府軍と列藩同盟軍が激戦。

7月10日、秋田藩が、列藩同盟から離脱。同盟軍に動揺が走り、山形藩兵などが撤退。古屋は、会津に向かい、大鳥軍を援軍に求めることにする。

7月25日、河井継之助、長岡城を奪還。

7月29日、新政府軍、新潟を占領。長岡城は、再び、新政府軍に奪われる。長岡の北方、加茂で戦闘を続けていた衝鋒隊も、撤退。8月14日、会津に到着する。

 

8月18日、再び、越後方面の赤谷口に出陣していた衝鋒隊に、すぐに会津城下に戻るように指示が来る。

8月25日、衝鋒隊、会津に戻り、すでに城下を包囲していた新政府軍と戦闘に入る。

9月3日、米沢藩が、新政府軍に降伏。

9月9日、衝鋒隊、大鳥軍と合流。猪苗代方面で戦闘に入ろうとしたが、会津藩から武器弾薬、兵糧の供給を拒否される。

9月12日、衝鋒隊は、大鳥軍と共に、会津を脱出し、福島へ。

 

以下、大鳥軍と、行動を共にする。

 

さて、なぜ、多くの歩兵たちが、脱走をし、新政府軍と戦うことになったのか。

もちろん、主君である徳川のために、理不尽な新政府軍に、素直に降伏をすることを良しとせず、あくまでも戦いたいという意思を持った者もいたことでしょう。

実際に、大鳥圭介は、その意思を表明する書状を書き残している。

 

しかし、幕府の「歩兵」の多くは「傭兵」です。

この「傭兵」たちは、つまり「職業」として歩兵をしている。

素直に、新政府軍に降伏をしてしまえば、自分の仕事を失ってしまう訳で、それでは、この先、どうすれば良いのか、困ることになる。

つまり、自分が歩兵でいるためには、戦闘を続けなければならない訳で、そのために、脱走をする歩兵が多かったのではないかということ。

そして、彼ら、歩兵は、会津などの支援を期待することになる。

 

しかし、会津藩ら、新政府と敵対することを表明していた東北の諸藩も、この旧幕府脱走歩兵たちは、歓迎をするものではなかった。

東北諸藩の冷たい対応を目の当たりにして、「自分たちは、いったい、何のために戦っているのか」と、憤る歩兵たちをなだめるのに、大鳥は、苦労をすることにもなる。

 

そして、箱館で降伏をした歩兵たちは、わずかな交通費だけを与えられて、国元に帰されたそう。

ちなみに、今、靖国神社があるのは、元幕府歩兵の三番町歩兵屯所があった場所だそうです。