昨日、作山古墳を訪れたついでに、近くの備中国分寺を撮影。
この備中国分寺は、総社、吉備路のシンボルのようなものですよね。
また、改めて、見に行こうと思っています。
さて、この「国分寺」というもの。
奈良時代に、聖武天皇の命令で、全国に作られたというのは、有名な話。
各国に、一つずつ。
当然、備前国にもあった訳ですが、備前国国分寺は、どこにあったのか。
ネットで調べてみる。
備前国分寺があったのは、赤磐市の馬屋という場所だそう。
平安時代末期に北部回廊を焼失し、機能を失ったということ。
鎌倉時代には再建が進められたようですが、江戸時代初期には、寺院としての機能を完全に喪失したということ。
国分寺は、時代の流れと共に、廃れたり、他の宗派の寺院として生き残ったりしたそうですね。
なぜ、そのような経緯をたどったのかと言えば、律令体制の緩みと共に、財政支援が無くなったからだそう。
備中国分寺は、今は、真言宗の寺院となっているそうですね。
やはり、備中国分寺もまた、廃寺となっていたのですが、戦国時代に、備中高松城の城主、清水宗治によって再興。
しかし、再び、衰退をした後、江戸時代中期、宝永年間に、また、再興されたということ。
今、備中国分寺には、五重塔が建っていますが、奈良時代に作られた備中国分寺には、何と、七重塔が建てられていたそうですね。
この七重塔は、南北朝時代に焼失をしたということ。
現在の五重塔は、江戸時代の文政4年(1821)に再建が始まり、弘化年間に完成したということ。
美しく、立派ですよね。