総社市にある「作山古墳」に行ってみました。
作山古墳は、5世紀中期に作られたと考えられ、墳丘長は、282メートルで、全国でも10番目の大きさということ。
微妙に位置を変えて、遠景。
左が、前方部、右が、後円部になります。
吉備路を歩いていると、このような道しるべの石柱が。
これは、近年に建てられたもののようで、まだ、新しいですね。
吉備路の道しるべから北に向かって歩くと、このような狭い切り通しがあります。
この切り通しは、右が作山古墳の墳丘で、左が、古墳を作る時に、削り残された丘の残りということになります。
この切り通しを抜けると、駐車場があります。
駐車場から、切り通しを振り返る。
右が、丘の削り残しで、左が、作山古墳の墳丘です。
駐車場の入り口に、古い道しるべの石柱がありました。
「右、三須」「左、惣社」とあるようです。
こちらは、駐車場にあった、古い案内板。
こちらが、新しい案内板になります。
墳丘を登り、一段目のテラス部。
更に、登り、二段目のテラス部。
一段目、二段目の平らな部分が、古墳の周囲を巡っています。
古代の人が、これを作ったと思うと、面白い。
前方部の頂上から、南の景色を見る。
前方部から、後円部の方を見る。
後円部に、更に、接近。
これは、どこから撮ったものか、分からなくなりました。
更に、後円部に接近。
後円部の頂上です。ここにも、説明版が設置されています。
こちら、説明版です。
後円部頂上を振り返る。
後円部の頂上から、東の景色を見る。
後円部の高さは、24メートルということ。
かなり、高い。
後円部の上から、二段になっているテラス部を見下ろす。
綺麗に、段になっているのが、分かりますかね。
二段目の北側のテラス部を歩き、前方部の方向に向かう。
墳丘を見上げる。
この作山古墳には、くびれ部北側に、「造出」があります。
多分、これが、そうでしょう。
南側に、同様の「造出」があったのかどうかは、不明だということのよう。
下から、墳丘を見上げる。
綺麗に、段になっているのが、分かりますかね。
写真、右が、前方部、北西の角になります。
こちらは、切り通し部分にあった、古いお地蔵さんです。
他にも、何体か、お地蔵さんがありました。
さて、この「作山古墳」ですが、全国でも10番目の大きさということで、かなり、大きな権力を持っていた人物が作ったということが分かる。
しかし、この「作山古墳」は、成形が、かなり不完全で、古墳の築造に置いて、かなり、手抜きをされていることが分かるそう。
前方部の先に残された、丘の削り残しも、その一つ。
後円部の山頂に設置されていた案内板から、「作山古墳」「造山古墳」の測量図を拡大。
「造山古墳」は、全国でも4番目の大きさで、完全に、綺麗な前方後円墳の形をしていて、労力を惜しみなく投入して築造されたことが分かるそう。
しかし、「作山古墳」の方は、前方部の先の丘の削り残しの他に、後円部が、真円ではなく、縦長の楕円になっている。
これは、墳丘を、より大きく見せるためではないかということのよう。
また、前方部の先端も、まっすぐの直線ではなく、歪んだままであることが分かります。
しかし、だからといって、「作山古墳」は、未完成という訳ではない。
墳丘の外表には、葺石が敷かれ、周囲には、埴輪が並べられていたことが確認をされているそう。
つまり、作山古墳は、この状態で、完成形だったということ。
ちなみに、盗掘の跡が確認をされていないので、作山古墳には、埋葬施設が残っている可能性もあるということのよう。
ウィキペディアによると、出土した埴輪は、ほとんどが「円筒埴輪」「朝顔型埴輪」になるそうです。
この埴輪が、墳丘の平坦なテラス部に、列にして置かれ、その総数は、5000本にもなると推定されるそう。
一部、「形象埴輪」も確認をされているそうです。
古墳が作られた当初の姿は、壮観だったでしょうね。
さて、この作山古墳の東4キロほど、総社市、岡山市の市の境を越えたとこに「造山古墳」があり、この「造山古墳」では、近年、発掘調査が進められ、将来的に、かつての姿に復元をする話もあるようですが、この「作山古墳」の方では、そういう発掘調査などは、行われいないようです。
やはり、個人的に大きな関心は、埋葬施設が、当時のままで現存しているのかどうか。
期待はありますが、調査の予定は、無いのですかね。