大鳥圭介の戊辰戦争での活躍について。

この本から、まとめてみました。

 

 

慶応4年(1868)4月11日、大鳥圭介、神田駿河台の私邸から脱走。向島の小倉庵付近で、脱走歩兵たちと合流。

歩兵頭並、本多幸七郎。歩兵指図役頭取、大川正次郎、山角麒三郎。伝習隊指図役、士官30人から40人。歩兵450人。

これらは、伝習隊第二大隊、通称、小川町大隊と呼ばれる部隊です。

翌日、圭介は、下総国府台に向けて、出発する。

葛西の渡しから南下中、圭介たちを追いかけて来た別の伝習隊歩兵たちが、圭介の部隊に合流。約40人。

 

国府台で、他の脱走兵たちと合流する。

そこに居たのは、土方歳三、新選組副長。本多幸四郎、伝習第二大隊長。山瀬司馬、歩兵第七連隊隊長。吉沢勇四郎、土工兵隊長。秋月登之助、伝習第一大隊長、辰巳鑑三郎、桑名藩隊長。など。

 

伝習隊大手前大隊、約700人。

歩兵第七連隊、約350人。

桑名藩兵、約200人。

土工兵、約200人。

これに、大鳥圭介の率いる伝習隊小川町大隊、約600人。

総計、約2000人が集結。

大鳥圭介は、全軍の都督となる。秋月登之助は、司令官に。土方歳三は参謀に。

 

前軍、伝習第一大隊、700人(隊長、秋月登之助)。桑名藩兵、200人。回天右半隊、100人。新選組、30人(隊長、土方歳三)。伝習砲兵、100人(山砲2門)。

中軍、伝習第二大隊、600人(隊長、本多幸七郎)。

後軍、歩兵第七連隊、350人。会津藩別伝習隊、80人。土工兵、200人。

と、三軍に編成し、北上を開始。

 

4月16日、結城街道を北上する大鳥軍と、それを阻止しようとする新政府軍の間で戦闘が始まる。

新政府軍は、館林藩兵、須坂藩兵。約120人。

大鳥軍は、新政府軍を破る。

 

4月17日、大鳥軍は、結城街道、日光街道から小山宿に向かう。小山では、新政府軍、約300人が、大鳥軍を待ち受ける。香川敬三の率いる新政府軍に、宇都宮藩兵、彦根藩兵、壬生藩兵らが参加。戦闘は、大鳥軍の勝利。新政府軍は、宇都宮方面に撤退。

この「小山の戦い」は、「鳥羽伏見の戦い」以来、初の旧幕府軍、新政府軍の本格的な戦闘で、戊辰戦争で、数少ない、旧幕府軍の完勝となる。

夕刻、再び、攻撃をかけてきた新政府軍を撃退。しかし、この戦闘中、軍馬が多数、逃走をしてしまい、大鳥軍は、その後、弾薬、物資の不足に悩まされることになる。

 

4月19日、秋月登之助、土方歳三が率いる前軍が、宇都宮城を攻撃。この時、大鳥は、軍を二つに分け、両軍、別々の街道を日光に向けて北上中だった。

大鳥率いる本隊は、東方に黒煙が立ち上るのを見て、前軍が宇都宮城を攻撃したことを知る。大鳥は、急遽、宇都宮に向かうことに。

4月20日。大鳥は、前軍が落とした宇都宮城に入る。

4月22日、大鳥軍は、宇都宮城から、壬生城の攻撃に乗り出す。しかし、激しい暴風雨の中の戦闘で、状況は不利と判断し、撤退。大鳥軍、八分の負け。

4月24日、新政府軍が、宇都宮城の奪還に乗り出す。新政府軍の猛攻撃に、大鳥軍は、甚大な被害を出し、宇都宮城を放棄。脱出する。大鳥軍は、士官、兵士、武器弾薬を大きく損耗し、大きく弱体化することになる。

4月25日、大鳥軍、今市宿に到着。その後、日光へ。宇都宮での敗戦で、兵士の士気が大きく低下。脱走が相次ぐ。大鳥は、日光で、籠城戦のつもりだったが、拒否される。

4月27日、日光東照宮を訪れ、今市に戻る。今市は、日光街道、奥州街道、会津街道などが交わる、交通の要衝。

4月28日、旧幕臣の松平太郎が、大鳥に支援物資を届ける。

4月29日、大鳥軍、再び、日光へ。板垣退助の率いる新政府軍が、今市に入る。大鳥軍は、軍議の結果、一旦、会津方面に向かうことにする。

閏4月1日、大鳥軍、日光を出発。行軍は、難航する。

会津領に向かう大鳥軍に、会津藩から「会津領に入られては、迷惑である」と拒否される。しかし、圭介は、自軍の苦境を伝え、説得。会津領に入る了承をもらう。

閏4月5日、会津藩士、山川大蔵と合流。

閏4月6日から16日まで、大鳥軍、田島宿に宿営。会津藩と共同し、軍の組織を改編する。

 

第一大隊(大手前大隊伝習隊)450人、隊長、秋月登之助。

第二大隊(小川町大隊伝習隊)350人、隊長、大川正次郎、沼間慎次郎。

第三大隊(御料隊、第七連隊)300人、隊長、加藤平内、山瀬司馬、天野電四郎。

第四大隊(草風隊、純義隊)200人、隊長、天野花陰、村上求馬、渡辺綱之助。

都督、大鳥圭介。副都督、山川大蔵。

 

第一大隊は、三斗小屋(黒磯市)。純義隊は、白河口。草風隊は、塩原口(那須塩原市)。第二大隊、第三大隊は、日光口に配置。

大鳥圭介、山川大蔵の率いる第二大隊、第三大隊は、会津街道を南下し、日光に入り、鬼怒川を挟んで、板垣退助の率いる新政府軍と対峙する。

 

閏4月21日、大鳥軍が、今市宿の新政府軍に攻撃を開始。しかし、三つに分けた部隊の連携が上手く行かず、新政府軍に敗北。(第一次今市の戦い)

5月6日、大鳥軍は、今市の新政府軍に総攻撃をかける。しかし、板垣退助の巧みな用兵と新政府軍に援軍が到着したことで、大鳥軍は、再び、敗北。(第二次今市の戦い)

大鳥軍は、攻勢を諦め、藤原方面に撤退し、会津街道口での持久戦に入る。

 

7月21日、圭介は、伝習隊第二大隊(約500人)を率いて、田島宿に入る。

7月26日、大鳥圭介、会津藩主、松平容保と謁見。

7月29日、大鳥軍、松平容保の要請を受け、猪苗代方面に出陣を決定。

8月1日、大鳥軍、猪苗代方面に出陣。

8月19日、二本松奪還に向けて、会津藩兵、仙台藩兵らが出陣し、大鳥軍にも出陣の要請が入る。大鳥は、この出陣に反対をしたものの、軍に戻ると、すでに、本多幸七郎、大川正次郎らが、伝習隊を率いて出陣をした後だった。この時の戦闘では、会津藩兵、仙台藩兵らがろくに戦うことなく撤退。伝習隊は、新政府軍の攻撃を受け、大きな被害を出して敗北。

8月21日、新政府軍の攻撃により「母成峠の戦い」が始まる。新政府軍3000人に対して、大鳥軍は700人。多勢に無勢で、大鳥軍は、新政府軍の猛攻を支えきれず、新政府軍は母成峠を突破し、23日、会津城下に入る。

 

この「母成峠の戦い」で、大鳥軍は、壊滅的な敗北となり、「大鳥圭介戦死」という情報が流れたそうです。しかし、圭介は、ほんの数人の従者たちと山中をさまよい、数日後に、何とか、伝習隊の士官たちと合流。

大鳥軍は、米沢藩に向かうことになる。しかし、米沢藩からは、領内に入ることを拒否される。米沢藩は、すでに、新政府軍に降伏をするつもりだった。

9月、旧幕府脱走兵で構成される衝鋒隊(隊長、古屋作久左衛門)と合流。会津領を出ることを決める。

9月12日、大鳥軍、福島宿に到着。板倉勝静、小笠原長行ら、かつての幕府重臣らと合流し、榎本艦隊と合流することを決める。

仙台藩に入った大鳥軍は、仙台藩士、星恂太郎の率いる洋式軍隊、額兵隊と合流。

10月21日、榎本艦隊と共に、大鳥軍は仙台を出港し、蝦夷地を目指す。この時の大鳥圭介直属の大鳥軍(伝習歩兵隊)は、225人だったということ。

 

明治元年(1868)10月21日、榎本艦隊、蝦夷地の「鷲の木浜」に到着。ここから、上陸をした榎本軍の指揮を、大鳥圭介が取ることになる。

圭介は、軍を二つに分け、一隊を、土方歳三に任せる。

大鳥軍は、森から大野をへて、箱館に向かう。

土方軍は、川汲から亀田半島沿岸を、箱館に向かう。

10日25日、榎本軍、五稜郭を占領。

11月1日、土方軍、松前城を落とす。

12月15日、榎本武揚、箱館臨時政府の成立を宣言する。

 

明治2年(1869)4月9日、新政府軍、蝦夷地、乙部に上陸。新政府軍は、軍を二つに分け、一隊は、江差を占領し、海岸沿いに松前を目指す。一隊は、更に、二つに分かれ、一隊は、木古内へ。一隊は、二俣口に向かう。

4月12日から20日まで、大鳥軍は、木古内方面を進軍する新政府軍と対峙し、戦闘。

4月13日から24日まで、土方軍は、二俣口で、新政府軍と戦闘。

4月22日、大鳥軍は、木古内から、箱館に撤退。松前から新政府軍に背後を突かれる懸念があったのと、新政府軍の艦隊が、箱館方面に向かったため。圭介は、矢不来で新政府軍を迎え撃つ作戦を立てる。

4月29日、新政府軍が矢不来を攻撃。新政府軍の歩兵は撃退するものの、大鳥軍は、激しい艦砲射撃に晒され、敗北。箱館に撤退する。二股口の土方軍も、大鳥軍の敗北により、孤立の懸念があり、箱館に撤退する。

5月11日、新政府軍、箱館を総攻撃。土方歳三、戦死。

5月12日、新政府軍の激しい艦砲射撃を受け、古屋佐久左衛門が戦死。

5月15日、孤立をしていた弁天台場が、新政府軍に降伏。

5月17日、榎本武揚、新政府軍に降伏をする。

 

以上、大鳥圭介の戊辰戦争での戦いの概略です。

 

さて、大鳥圭介について、多少、知識のある人は、大鳥圭介を「戦争下手」「戦えば、必ず負ける」というイメージを持っているのではないでしょうかね。

確かに、大鳥圭介の率いる旧幕府脱走兵たちは、新政府軍に対して、快勝をしたという場面は、ほとんど無い。

しかし、それは、大鳥圭介の軍事的才覚というよりも「脱走兵」という大鳥圭介の率いる軍隊の性格によるところが大きいのではないかと思います。

大鳥軍には、どこからも武器弾薬、そして、人員の補給のあてがない。

恐らく、武器弾薬の使用には、かなり、制限があったのではないかと思われます。

これでは、思った通りの戦闘を行うことは難しい。

また、武器弾薬以上に、「人員」の補充には、無理があったものと思われます。

人員は、誰でも良いという訳ではない。歩兵として使うには、その訓練を受けたものでないと無理。また、士官の補充は、洋式歩兵の扱いを理解していなければならない訳では、ほぼ不可能だったのではないでしょうか。

つまり、大鳥圭介の立てる作戦を理解し、実行することが出来る人員が不足をしていたということ。

 

また、大鳥圭介の率いる軍隊は、恐らく、近代陸軍の歩兵のように大鳥圭介の命令で、自在に動くというものではなかったのだろうと想像します。

大鳥圭介と歩兵たちは、主従関係にあった訳ではない。しかし、大鳥圭介配下の伝習隊はまだしも、大鳥軍に合流した他の脱走兵たちは、そもそも、大鳥圭介の命令に絶対的に服従をしなければならない理由がない。

恐らく、大鳥軍は、緩やかな連携の中にあり、統率の取れた軍隊という訳ではなかったのではないでしょうか。

これでは、大鳥圭介の意向を、軍全体に反映することは難しいものと思います。

 

もっとも、「今市の戦い」での敗北は、大鳥圭介の作戦が、新政府軍を率いる板垣退助に完敗をした訳で、大鳥圭介の軍事的才能は、板垣退助には劣ると言って良いのかも知れない。

しかし、板垣退助は、配下の土佐藩兵士とは主従関係にあり、兵士は、板垣退助の思いのままに動かせることが出来る。また、武器弾薬の補充は十分にあり、更に、他の藩からの援軍もある。大鳥圭介が、板垣退助に比べて不利な立場にあったことには変わりない。

 

しかし、大鳥圭介が「負けてばかり」というのは、間違いです。

 

まず「小山の戦い」では、新政府軍に完勝している。

そして、「今市の戦い」に敗北をした後、藤原口での持久戦では、大鳥軍は、新政府軍と互角の戦いを展開し、新政府軍を、よく防いでいます。

蝦夷地での一連の戦闘では、大鳥軍は、新政府軍の歩兵を相手には、かなり互角の勝負をしています。

しかし、新政府軍艦隊の艦砲射撃には、どうにも対処が出来ず、この敗北は、誰が指揮を執っても同じでしょう。

 

もし、徳川慶喜が、新政府軍と戦うと決断し、大鳥圭介が、十分な支援の元、思い通りに幕府歩兵を指揮することが出来ていれば、どういう経緯になっていたのか。

興味のあるところです。