大河ドラマ「どうする家康」が最終回を迎えたということ。

しかし、平均視聴率は、「いだてん」に続いて、歴代ワースト2位になるということのよう。

個人的には、第一回、第二回は見ましたが、その後、見なくなってしまった。

あの演出、ストーリー展開では、大河ドラマに、本格時代劇を期待する人は、見なくなっても仕方がないでしょう。

 

しかし、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、良かったですよね。

個人的には、傑作ではないかと思っている。

恐らく、歴史ファンでも詳しくは知らないであろう鎌倉時代初期の権力争いを、あれほど、面白く、ドラマにするとは。

やはり、三谷幸喜さんの脚本は、凄いの一言。

 

さて、この「鎌倉殿の13人」の主人公は、北条義時。

北条時政の後を継ぎ、鎌倉幕府の最高権力者になった人物であるという知識はありましたが、詳しいことは、何も知らなかった。

そのため、予習にと思って、読んだのが、この本です。

 

 

とても分かりやすく、コンパクトにまとめられていて、面白かったです。

この本を読んで初めて知った意外なこと。

北条義時は、本来、北条時政の後を継ぐ人物ではなかった可能性があるそうですね。

北条時政には、宗時という長男が居た。

本来、この宗時が、北条家を継ぐはずだったのでしょうが、宗時は、源頼朝と共に挙兵をして間もなく、討ち死にをしてしまう。

宗時亡き後、北条家を継ぐのは、次男である義時ということになるはずですが、実は、時政の後妻「牧の方」の子、政範が、北条家の家督継承者、つまり、嫡男になっていたよう。

義時は、「江間」という名字を名乗り、恐らく、北条家を出ていた。

もっとも、北条時政、義時について、確かな史料というものは少なく、特に、個人的なことについては、分からないことも多いようですね。

そのため、多くの説があるということのよう。

そして、家督を継ぐ「嫡男」ではなかった義時は、父、北条時政から、鎌倉幕府の権力と、北条家の家督を、実力で奪い取ることになる。

そして、やはり、北条義時が権力を掌握する過程で、大きな力となったのは、姉、北条政子。

北条政子が、北条義時と手を組んだことが、義時が鎌倉幕府の実権を握る、大きな原動力になったという印象です。

 

北条義時には、妻である「伊賀の方」によって毒殺をされたという説がある。

大河ドラマでは、その説を取っていましたよね。

この「毒殺」に関して。

大泉さんが演じる源頼朝が死去をする時、「もしかすると、義時が、毒を盛ったのでは」とも取れるようなシーンがありましたよね。

もっとも、ドラマでは、頼朝が、脳卒中を起こしたと思われる感じで落馬をするシーンとなっていましたが、これもまた、面白い解釈でしたね。

源頼朝が死去した部分の「吾妻鏡」は、その前後が欠落をしているそうで、頼朝が落馬をして亡くなったという話は、実際の死去の時よりも、随分、後の記録の中に、「昔、こういうことがあった」ということで頼朝の落馬による死去が記されているそうです。

 

さて、ここからは、個人的な趣味の話。

 

「鎌倉殿の13人」の一人、畠山重忠。

 

この「畠山重忠」は、「武士の鑑」と言われた、優れた武士。

安易に北条時政の威勢に屈することなく、物事に筋を通す、まさに、「武士の中の武士」のような人物だったようですが、そのため、北条時政に難癖をつけられ、無理矢理、滅ぼされることになる。

これが「畠山重忠の乱」です。

 

この「畠山重忠の乱」によって、平氏の流れを組む「平姓畠山氏」は、滅亡することになる。

しかし、その後、足利義兼の庶長子であった足利義純が、この畠山氏の養子に入り、畠山氏を相続することになります。

源氏の流れを組む「源姓畠山氏」の誕生です。

この「源姓畠山氏」は、足利一門として、細川氏、斯波氏と共に、「管領」として室町幕府を支えることになる。

 

さて、この畠山氏を継ぐことになった足利義純。

実は、畠山氏に養子に入る前、新田本宗家二代目当主の新田義兼の娘と結婚をし、子供も居ました。

しかし、足利義純は、畠山氏に入るため、この妻と子供と絶縁をすることになる。

そして、妻と子供(時兼)は、新田家に戻ることに。

 

そして、この時、新田本宗家三代目当主だった新田義兼の子、義房は、父に先んじて、病死をしていた。

そして、義兼の孫の新田政義が、幼くして新田本宗家四代目当主となり、祖父の義兼が、後見をしている状態。

このような事情もあってか、新田義兼の死後、義兼の妻の新田尼は、自分が持っていた領地の多くを、出戻りの孫、時兼に譲ることになります。

ここに、新田本宗家と肩を並べる有力な新田氏分家の「岩松氏」が誕生をすることになります。

 

鎌倉幕府の滅亡時、岩松氏は、新田本宗家当主の新田義貞と行動を共にし、鎌倉攻略の一翼を担いますが、新田義貞、足利尊氏が敵対することになった南北朝時代、岩松氏は、足利尊氏の配下で、活動をすることになります。

そして、新田本宗家が、足利氏との戦いに敗れて滅亡をすると、この岩松氏が、「新田氏嫡流」を名乗ることになります。

 

ちなみに、徳川家康の「徳川」という名字は、新田氏の祖、新田義重の四男、世良田(得川)義季の子孫ということで名乗ったもの。

この世良田(得川)氏の流れを組む子孫が、三河国に移り住んだという話があるようで、松平氏だった家康は、ここに目を付け、系図を、清和源氏新田氏に繋げることになります。

そして、徳川家康が関東に入った時、新田氏嫡流を名乗る岩松氏の当主を呼び出し「系図を出せ」と言ったようですが、岩松氏当主は、それを拒否。

そのため、岩松氏は、徳川家臣として、かなり、低い身分に置かれたということ。

 

さて、話は変わって、北条氏について。

 

父、北条時政から、実力で、権力と家督を奪い取った北条義時。

その後、この義時の系統が、「得宗」として、鎌倉幕府に君臨することになります。

そして、義時の後を、三代目執権として、北条泰時が継ぐことになる訳ですが、泰時の弟、朝時が、祖父である北条時政の屋敷「名越邸」を受け継ぎ、「名越氏」を名乗ることになります。

 

この北条朝時が、祖父、北条時政の屋敷を受け継いだということは、大きな意味を持ち、時政は、この朝時を、北条家家督と考えていたのではないかという可能性もあるよう。

そして、この「名越氏」は、「自身こそ、北条家嫡流」という意識を持っていたようで、度々、得宗家と対立をしたようです。

 

そして、鎌倉幕府末期、後醍醐天皇が、倒幕の挙兵をし、失敗。

隠岐の島に流されることになる訳ですが、楠木正成が、再び、挙兵し、赤坂、千早で奮闘をする中、後醍醐天皇は、隠岐の島を脱出。

伯耆国の名和長年に迎えられる訳ですが、ここで、鎌倉幕府、得宗の北条高時は、足利尊氏、名越高家の二人を、後醍醐天皇と戦うために上洛させることになる。

これは、鎌倉幕府にとって、まさに「切り札」だったということ。

「北条家嫡流」を自認する、名越高家。

清和源氏嫡流として意識され、「武家の当主」となる家柄と認識されていた、足利尊氏。

後醍醐天皇と戦うに当たって、北条高時は、まさに、最強の「切り札」を差し向けたということになる。

 

しかし、これは、裏目に出る。

 

名越高家が戦死。

そして、足利尊氏の裏切り。

北条高時、鎌倉幕府にとっては、痛恨の極みだったでしょうね。