先日、倉敷市郷内地区に後鳥羽上皇の皇子、頼仁親王のお墓があると聞いて見に行った時、近くに「五流尊龍院」というお寺があることを知りました。

この「五流尊龍院」について。

ウィキペディアから。

 

この五流尊龍院は、天台修験系の一宗派「修験道」の総本山だということ。

伝承によれば、修験道の祖、役行者の五人の弟子が、それぞれに熊野本宮大社の御神体を持ち、それぞれに、お寺を建て、その中でも、この「尊龍院」が、中心寺院になったということ。

奈良時代には、紀州の熊野と同じ社殿(十二社権現宮)を整え、近くの木見に諸興寺と新宮を、山村に由加寺と那智宮(今の蓮台寺、由加神社)を建て、「新熊野三山」と称したそうです。

熊野神社と修験道の寺院が一体となり、栄えましたが、平安時代の中期以降には、衰退をしてしまったそう。

 

承久の乱の時には、三井寺の長吏であった後鳥羽上皇の皇子の覚仁親王が、戦乱を逃れて、この地に下る。

更に、乱の後、後鳥羽上皇の流罪に連座して、皇子の頼仁親王が、この地に流されることになる。

この頼仁親王が、衰退をしていた五流の寺院と、十二社権現宮を再興しますが、南北朝時代を過ぎると、再び、衰退。

そして、尊龍院だけが、残るということになったそう。

ちなみに、なぜ、頼仁親王のお墓が、あそこに、ポツンとあるのかと思っていましたが、かつて、そこには、諸興寺と新宮があったということですね。

 

応仁の乱の時には、戦乱に巻き込まれ、ほぼ、全焼をしたということ。

そして、明治時代に「神仏分離令」が出され、十二社権現宮は、「熊野神社」として独立し、尊龍院とは、別れることになる。

ちなみに、現在まで続く大僧正は、頼仁親王の子孫と伝えられているそうです。

 

こちらの鳥居。熊野神社の入り口となっていますが、この先に、五流尊龍院があります。

 

こちらが、境内の図になります。

色々と、興味深いものがあるので、また、散歩がてら、見に行かないと。

 

 

 

こちら、三重塔です。

立派ですね。

文化3年(1820)、建立。岡山県指定重要文化財。

 

そして、この三重塔の南側、道を挟んで、後鳥羽上皇の御影塔があります。

 

説明版です。

 

 

 

こちらが、後鳥羽上皇の御影塔です。

国指定重要文化財。

 

仁治元年(1240)、前年に亡くなった後鳥羽上皇の一周忌供養のために、覚仁親王と、頼仁親王が建立したということ。

伝承によれば、中には、後鳥羽上皇の分骨が、安置されているそうです。

同時に、廟堂、経堂も建立されたそうですが、応仁の乱の時の戦乱で焼失をしたそうです。

 

ちなみに、こちらは、近くにあった「頼仁親王、姿見の井戸」という井戸。

 

さて、この「五流尊龍院」について、ネットで調べていると、意外なことが分かりました。

それは、明治新政府の実力者、大久保利通が暗殺をされた時に乗っていた馬車が、永代供養のために、この五流尊龍院に納められ、保管をされているそうです。

なぜ、そのようなものが、ここにあるのか。

どうも、当時、大久保家に出入りをしていた人の中に、この五流尊龍院の関係者が居たそうで、その縁で、ここに馬車が納められることになったそう。

ちなみに、この馬車を見学するには、予約が必要で、写真撮影は、不可だそうです。

ぜひ、見たいところではありますが、写真撮影が不可の上に、予約が必要というのは、少し、面倒かと思うところです。