以前、新聞の記事で見かけてから、一度、身に行こうと思っていた「京橋御門」を見に行って来ました。
場所は、備前国児島の東端にある「小串」という地域。
かつては、岡山藩の米蔵があり、港町として、大いに、賑わっていたようですが、今は、のどかな場所です。
散歩がてら、小串スポーツ広場の駐車場に車を置き、ぶらぶらと歩いてみました。
まずは、化粧地蔵を発見。
綺麗に、色が塗られています。
次に、広い敷地の中に、二頭のヤギが、放されていました。
一頭が、僕を見て、エサをくれるのかと近寄って来ましたが、何もくれないと分かると、仲間のところに戻って行きました。
可愛いですね。
歩いていると、色々な、発見があります。
こちらは、小串城の遠景です。
この小串城に拠点を置く高畠氏が、毛利方から、織田方に寝返ったことが、宇喜多軍、毛利軍が、備前国児島の八浜で激突した「八浜合戦」のきっかけになります。
幕末には、外国船に備えて、台場が置かれたそう。
岡山藩の陣屋も、小串に置かれたそうです。
さて、この道しるべと、大きな石碑が、道沿いにあります。
石碑には、何が書かれているのか、読み取ることが出来ませんでした。
この石碑を、西に入ると、小串小学校、そして、京橋御門へ。
東に入ると、小串城跡に行く道になります。
こちらは、小串小学校の隣にあったお地蔵さんです。
お花が供えられ、お地蔵さんの前には、お参りをする人のために、マットが敷かれています。
今でも、大いに、周囲の人によって守られているようですね。
こういうのを見ると、個人的に、嬉しい。
さて、こちらが、「京橋御門」です。
この「京橋御門」は、江戸時代、岡山城下の「京橋西詰」という場所に設置をされていた門だそうです。
高さ、約5メートル、幅は、約7メートルということ。
この門が設置されているのは「赤木家」で、かつては、この小串で庄屋をしていたそうです。
なぜ、岡山城下にあったこの門が、小串の赤木家にあるのかと言うと、明治9年(1874)に、岡山藩池田家から、赤木家に、この門が払い下げられ、この場所に移築をされたということのよう。
赤木家では、公立の学校が出来るまで、この屋敷で、私学校を開いていたそうで、その私学校にふさわしい門を、と、言うことで、この門を購入したのではないかということ。
ちなみに、今、この赤木家は、住む人が無く、空き家になっている。
今も、この門は、赤木家の所有で、老朽化をしてはいるものの、出来るだけ、保存に努めているということのようです。
江戸時代の城下町の遺構は、その後の開発や、先の戦争での空襲で、ほぼ、失われてしまっているので、この「京橋御門」は、貴重なもの。
何とか、残して欲しいものですが、やはり、個人で維持、管理をして行くというのは、なかなか、難しいのではないですかね。
さて、江戸時代、江戸を始め、城下町などには、所々に木戸があり、夜間には、それが閉じられ、自由に町の中を行き来することは出来なかったようですね。
この「京橋御門」は、山陽道と岡山城下の境にあり、城下町への人の出入りは、この門で管理をされていたようです。
当然、夜には、この門は閉じられ、出入りは出来ない。
ちなみに、町の木戸のところには、武家屋敷には「辻番」、町人町には「自身番」があり、人が詰め、町の治安や、人の往来の管理をしていたよう。
時代劇などに、そういう場面が登場することはあまり無いようですが、あの「木枯らし紋次郎」には、その様子が、しっかりと描かれていて、感心したのを覚えています。