倉敷市郷内地区の地図を見ていると、「旧由加街道」という道があるようすね。

今は、由加山を越えて倉敷に抜けるには、車で、県道玉野福田線を走るのですが、この玉野福田線の東側に、旧由加街道があるよう。

かつて、岡山方面から由加詣でをする人たちは、この旧由加街道を歩いたのでしょう。

そして、この「旧由加街道」沿い、「木見」と呼ばれる地区に「頼仁親王」のお墓があるようなので、行ってみました。

 

この「頼仁親王」は、「承久の乱」を起こした後鳥羽上皇の皇子で、乱の後、備前国児島に流されたということは知っていました。

しかし、お墓が、この場所にあるということは、全く、知らなかったところです。

 

児島線から、道を北に向かって歩いていると見えて来る、この木が茂った場所が「頼仁親王」の墓所になります。

 

すぐ隣に駐車場があり、車、一、二台なら、止められます。

 

駐車場には、このようなものがありました。

「新熊野三山の諸興寺跡」と書かれています。

ここに、お寺があったということなのでしょうかね。

 

さて、これが、西向きに設けられている正面入り口です。

 

ここが「冷泉宮頼仁親王」の墓所であり、宮内庁が管理をしていることが書かれています。

 

門は、鎖で閉ざされ、中に入ることは出来ないよになっています。

さすがは、皇族のお墓ですね。

 

門のところから撮影をした「頼仁親王」のお墓を、拡大。

皇族の紋章である「菊の御紋」があります。

 

さて、ネットで、「頼仁親王」について、調べてみる。

 

建仁元年(1201)に生まれ、文永元年(1264)に亡くなったということ。

母は、内大臣、坊門信清の娘の「西の御方」だそう。

そして、後鳥羽上皇の側近だった藤原兼子によって養育され、承元4年(1210)、親王宣下。

母親が、鎌倉幕府第三代将軍、源実朝の室、西八条禅尼と姉妹だったということで、源実朝の死後、北条政子によって征夷大将軍に望まれるが、後鳥羽天皇は、それを拒否したということ。

この墓所の近くに、修験道の五流尊龍院というお寺がありますが、その歴代の僧正は、この頼仁親王の子孫と言われているそうです。

そして、頼仁親王は、児島高徳の祖父という話もあるそうですが、これは、英雄を貴種に繋げる眉唾でしょう。

 

さて、この頼仁親王は、後鳥羽上皇の第6皇子で、第4皇子の桜井宮覚仁親王は、「承久の乱」を避けて、先に、この地に下っていたそう。

頼仁親王が、この地に流罪となると、その後は、二人で、生活をしていたということ。

五流尊龍院の敷地の中には、この覚仁親王のお墓や、後鳥羽上皇の遺骨を納めた供養塔もあるそうですね。

また、行ってみなければ。

 

さて、「旧由加街道」と思われる道を、南に向かって歩いていると、このようなものが。

 

 

 

 

重要文化財が、いくつもあるようですね。

 

更に、南に歩くと、また、このようなものが。

 

 

大きな常夜灯があります。

 

この奥にあるものは、何でしょうね。

結構、古いもののよう。

 

この近くには、熊野神社もあります。

結構、大きな神社のようなので、熊野神社も、また、行ってみようと思っているところです。