倉敷方面に出かける時には、由加山を越え、県道玉野福田線を走ることが多いのですが、由加山の北側斜面を下り、児島線に出る途中、以前から、ずっと、気になっているものがありました。

それは、尾原という地区の道を、北に向けて下っていると、右手にあるもの。

地図で調べてみると「薬師堂」ということだったので、行ってみました。

 

この建物が、薬師堂です。

御薬師様は、どこの居るのだろうと思い、建物の中を覗いてみると、そこに安置されていました。

 

この石仏が、薬師如来様のようです。

さて、この「薬師如来」とは、病気や、苦しみ、悩み、怪我などを癒してくれる仏様です。

このように立派なお堂に祭られているところからすると、地元の人たちの信仰を集めていたのでしょう。

お供え物も、お花も、見えないところからすると、今では、訪れる人も、あまり居ないのでしょうかね。

もっとも、奇麗に掃除がされているので、管理をされていて、人が来ないという訳ではないものと思われます。

 

さて、この薬師堂の隣に置かれている石柱や、お地蔵さん。

 

このような置かれ方をしているのを見ると、かつては、周辺に点在していたものが、いつの頃か、この場所に集められたのでしょう。

石柱に書かれた文字は、雨風で劣化し、読み取ることは出来ませんでした。

かなり、古いもののようですね。

 

さて、この薬師堂の近くに、このようなものがありました。

 

「古市金峨の墓所」とあります。

薬師堂の前に、小さな墓地があるので、その中に、この方のお墓があるということなのでしょう。

 

そして、この場所から、道路を挟んだ場所には、このようなものが。

 

「四条派画人・古市金峨生家跡」と書かれています。

ここに、古市金峨さんの生まれた家があったということなのでしょう。

 

ネットで調べてみますと、この「古市金峨」という人は、文化2年(1805)に生まれ、明治13年(1880)に亡くなった、日本画家だそうです。

17、8歳の頃に京都に出て、岡本豊彦に入門。

30歳の頃に帰郷し、制作活動と、門弟の指導に務めたそうです。

 

さて、この薬師堂の前の道を、少し、下ったところに、もう一つ、以前から、気になっていた場所があります。

ついてに、そこにも、足を運んでみました。

 

道の左手、奇麗に整備をされた場所に、小さな石柱と、他に、いくつか、石で作られたものが置かれているのが分かるでしょうか。

実は、以前、この場所には、小石を積み上げたものが、いくつも置かれていて、まるで「賽の河原」のようだなと思いながら、いつも、この道を通る時には、見ていました。

恐らく、何かを祭って、慰霊の意味で、石を積み上げたものが置かれているのだろうと想像をしていましたが、いつの頃からか、その、石を積み上げたものは、無くなり、代わりに、この小さな石柱が置かれ、奇麗に整備をされています。

 

この小さな石柱には「先祖代々」と文字が書かれているのが見えました。

そうしたら、この場所は、先祖代々の霊を祭った墓地なのかとも思いますが、一般的な墓地ではなく、何か、他の意味がある場所のようにも見えます。

そして、この石柱の後ろに置かれている石で作られた物は、小石を積み上げたものが、いくつも置かれていた頃からあったもののように思います。

恐らく、この場所を管理しているご子孫の方が、このように整備をされたのだろうと思いますが、一体、何なのか、気になるところです。