戦国大名、大友義鎮。

大友宗麟と言った方が、通りが良いでしょう。

なので、ここでは、大友宗麟で統一したいと思います。

 

さて、この「大友宗麟」という人物。

キリシタン大名として、高い知名度を持つわりには、やはり、世間の人気が高い訳ではないからか、「大友宗麟」個人にテーマを絞った一般向けの本というものが、ほぼ、無い。

 

 

やはり、まずは、この本ということになるのでしょうが、初版が古い上、新刊本が手に入らないようなので、今のところ、まだ、読んでいない。

 

 

そのため、この本が出版されたのを知り、すぐに購入。

しかし、内容的には、期待していた物とは、少し、違っていました。

 

この本の内容としては、まず、

「鎌倉時代以来の名門、大友家の歴史」

そして、

「大友宗麟の領国経営の実態」

そして、

「大友宗麟の外交」

そして、

「大友家の支配の中心都市だった豊後国府内という町が、どのような場所だったのか」

そして、

「大友家の文化的なもの」

などが中心で、大友宗麟の人生や、大友宗麟の他の戦国大名との攻防、また、大友宗麟の人となりが、把握でき、イメージをすることが出来るような内容では無かった印象です。

 

しかし、その中でも、興味深かったものは、色々と、あります。

 

やはり、大友宗麟の戦国大名としての、最も、大きな特徴は、「外交」にあるのではないでしょうかね。

やはり、九州という「地の利」ということがあるのでしょう。

かなり、幅広く、大友宗麟は、外交を展開している。

 

大友宗麟は「切支丹大名」として有名ですが、やはり、宗麟が、キリスト教に接する最初の動機は、西洋の文化と、貿易にあったのでしょう。

布教のために日本に来たフランスシスコ・ザビエルを豊後国府内に招き、領内での布教の許可をしている。

 

また、陶晴賢が、主君の大内義隆に対して謀反を起こし、自害に追い込む訳ですが、この時、陶晴賢が、大内義隆に代わる主君として招いたのが、大友宗麟の弟、晴英ということになる。

この時、通説では、宗麟は、晴英が大内家当主を継ぐことに反対をしていたと言われているようですが、実は、陶晴賢が謀反を起こす以前から、宗麟が、弟、晴英の大内家を継がせるということは、決定をしていたそうですね。

もしかすると、陶晴賢の謀反には、宗麟が、一枚、噛んでいる可能性もあるのかも知れない。

実は、宗麟が、弟を大内家に送りこむことには、「外交」にとって、非常に、大きな意味があったそうですね。

それは、室町幕府が行っていた「勘合貿易」のために使う印を、いつからか、なぜか、大内家が所有をしていたそうで、宗麟は、大内家に弟を送り込み、影響力を持つことで、この「勘合貿易」を行う権利を得ることが出来たということ。

そして、実際、大友宗麟は、弟、晴英、改め、大内義長と共に、中国を相手に勘合貿易を試みることになる。

しかし、この勘合貿易自体は、失敗に終わったようですが。

 

また、東南アジアとも、積極的に、貿易を行っていたようですね。

特に、カンボジア国王とも、書簡のやり取りをしていたそう。

 

キリスト教を通じて、当然、西洋とも貿易をしている。

そして、九州の「王」である大友宗麟が、キリスト教に入信したということは、西洋で、大きなニュースになったそうで、キリシタンとなった大友宗麟を描いた絵画が、何枚か、描かれたりしたそうです。

 

そして、宗麟は、国内での外交戦略にも長けていて、戦国大名として、九州北部を支配するに当たり、室町幕府や、周辺の戦国大名を相手にして、積極的な外交を展開し、成功している。

中でも、北九州への侵出を目指す毛利元就を相手に戦い、最終的に、元就を九州からの撤退に追い込んでいるのは、大きな成果でしょう。

 

しかし、九州でゆるぎない立場を築いたかに見えた大友宗麟ですが、肥前国で、新興勢力の龍造寺隆信の台頭を抑えることに失敗。

更に、肥後国、日向国への北上を目指す島津氏を相手に、「耳川の戦い」で大敗を喫したことで、大友宗麟の全盛期は終わり、大友家は、衰退に向かうことになる。

 

さて、ここからは、個人的な、「大友宗麟」に関して。

 

この「大友宗麟」という人物。

大友家が、江戸時代に大名として残らなかったため、不当に、低い評価をされているのではないかと思うところ。

そして、それは、大友宗麟が、江戸時代に禁止された「キリスト教」に入信をしたということで、その「不当に低い」評価は、更に、著しく、低いものにされてしまったのではないかと思うところ。

そして、その「不当に低い評価」を裏付けるための逸話が、江戸時代に、いくつも作られたのでしょう。

これは、宇喜多直家などと、同じ事情、経緯だと思います。

 

しかし、やはり、大友宗麟が「キリスト教」に入信をしたということに関しては、その領民や、周辺の地域の人たちに、大きな影響があったのではないかと思われます。

 

宗麟が、日向国に侵攻をした時、「切支丹の国を作る」と言って、神社やお寺などを破壊しながら進んだという話もあります。

これが、事実なのかどうかは、勉強不足で判断をすることは出来ませんが、実際、戦国時代、九州では、多くの人がキリスト教に入信をし、領主がキリスト教に入信をした時には、その支配地の領民を、強制的にキリスト教に改宗させ、神社やお寺を破壊するという事例は、多くあったようですね。

もしかすると、宗麟にも、その傾向は、あったのかも知れない。

もし、これが、事実なのだとしたら、神仏の力が実在すると思われていた時代、人々は、恐怖を感じたのではないでしょうかね。

大友宗麟が、求心力を失う、大きな原因になった可能性は、十分にある。

 

また、この日向国へ侵攻をする時、大友家の「軍配者」だった角隈石宗の進言を無視して、進軍したという話も。

これが事実なら、配下の武将たちもまた、大きな不安や、不満を感じたことでしょう。

 

そして、大友宗麟は、島津氏の猛攻を受け、大坂城に、自らおもむき、豊臣秀吉に援軍を頼むことになる。

この時、宗麟が国元に送った手紙の中に、「公のことは、豊臣秀長に、内々のことは、千利休に話すと良い」と書かれているのは、豊臣政権の内情をしる上で、よく紹介をされるところ。

 

龍造寺隆信を滅ぼした島津氏は、勢いに乗って、豊後国にまで侵攻。

そして、大友宗麟は、丹生島城に立てこもり、最後の意地を見せ、島津軍を撤退させる。

この時、南蛮渡来の大砲「国崩し」を、島具軍に向かって撃ち込んだのは、有名な話。

 

鎌倉時代以来の名門、大友家は、宗麟の後を継いだ、義統の代で終わる。

大友宗麟は、大友家の最後の輝き、と、言ったところでしょうかね。