現在、玉野の市立図書館の展示コーナーで、「備前醤油」に関する展示が行われているというので、見に行ってみました。
かつて、「備前醤油」は、大きなブランドで、玉野市でも、かつては、八浜から番田にかけての地域で、醤油を作っている会社が、いくつもあったそう。
今、八浜の町の中に、レンガ造りの煙突がある古い建物があるのですが、その建物もまた、かつて醤油を作っていた会社だということ。
今日の展示の説明を見て、初めて知りました。
二本ある煙突のうち、一つは、藤原酒造。一つは、山田醤油のものだそう。
パンフレットもありましたので、貰って来ました。
その中に書かれている、有名な醤油会社の名前。
近世。八浜、牛窓屋那須家。三代から四代、70年ほどの操業だったそう。
八浜、福部屋平岡家。三代、100年の操業だったようです。
八浜、郡屋平岡家。上の二家が、操業を停止した後に活躍。二代、50年ほどの操業。
郡、北澄屋窪田家。二代、50年ほどの操業。
郡、真鍋屋青山家。江戸後期から明治中期にかけて操業。
北浦、郡屋片山家。
幕末の頃には、備前醤油の3から4割の業者が、廃業をしたそうですね。
しかし、明治に入り、経営の再建や、組織の再建に務める人たちが出て来る。
明治12年に組合「備前醤油醸造組」を結成。
北方の合田俊三。郡の高階弥太郎、喜一郎らが、活躍。
この「備前醤油醸造組」は、他の醤油の産地の人たちとも手を組み、連合組織を結成し、大阪などで、価格交渉を行ったそうです。
更に、名古屋方面にも、販路を拡大したということ。
さて、ここで、近藤三郎二という人物が登場します。
番田の人で、岡山県の醤油業界の発展に尽力をした人だそう。
この近藤家は、多くの土地を所有する地主だったようで、その土地からの収入と醤油醸造の収入で、児島郡では、あの「塩田王」の味野の野崎家に次ぐ、高額納税者だったそう。その豊富な資金で、他の同業者の支援も行っていたそうです。
大正元年、岡山県醤油醸造同業組合が成立。
最盛期の大正5年には、610軒が加入していたということ。
旧備前醤油の地域では、大正元年に26軒が参加をしていたそう。
大正期には、郡で家野、見石で藤原、八浜で藤原(〇十「まるじゅう」)、田井で岡本、日比で高尾醤油が創業をしたそう。
しかし、昭和10年には、17軒に減少。
郡の藤沢、小川と、八浜の山田醤油は、戦後まだ続いたそう。
番田の近藤醤油は、赤マル醤油と名前を変えたそうです。
昭和14年、岡山県醤油工業組合が成立。これまでの組合は、解散する。
昭和24年、現在の岡山県醤油工業共同組合が設立される。
旧児島郡東部では、16名が加入をしていたということ。
しかし、今日では、その全てが廃業をしているそう。
さて、こちらは、展示品の中にあったもの。
山田醤油の瓶のようですね。
こちらは、近藤醤油のブランド「赤マル醤油」「玉龍醤油」の看板とラベルだそう。
旧児島郡東部、つまり、八浜から番田にかけて、多かった醤油醸造会社の中で、最も、最後まで残ったのが、この、番田の近藤醤油だったそう。
これだけ盛んだった醤油造りが、玉野市から無くなってしまったのは、残念ですね。
土地の名産として、残れば良かったのですけど。