乃至政彦さんという作家さんがいます。
この方は、戦国時代の合戦の様相を、江戸時代以降に書かれた「軍記物」などの二次史料を排除し、一次史料や、同時代史料を元に、真実の姿を解明しようと本を書いている人のようです。
いくつか、この方の本を読みましたが、なかなか、興味深く、個人的にも、後世に書かれた二次史料ではなく、同時代に書かれた史料を、忠実に検証し、戦国時代の合戦を明らかにしようという考えは、共感の持てるところ。
しかし、この「同時代史料」や「一次史料」に書き残された情報は、少なく、限られたもの。
自然、その史料を、どのように解釈をし、そこから、何を読み取るのかは、想像や、推測が多く含まれることになる。
乃至さんの想像、推測には、個人的に、同意の出来ない部分もあるのは確かですが、その想像や推測の元になる同時代史料、一次史料は、とても、興味深いもの。
乃至政彦さんの「謙信×信長」という本。
上杉謙信、織田信長の二人が、戦国大名として誕生をし、勢力の拡大していく過程と、両者の関係を記し、そして、「手取川の戦い」で、激突をするまでの歴史が書かれています。
もっとも、著者が、後書きでも書いている通り、この本の趣旨は「手取川の戦い」を、一次史料、同時代史料から解明しようというもの。
この「手取川の戦い」とは、何か。
天正5年(1577)、9月23日、加賀国の「手取川」で、柴田勝家の率いる織田軍と、上杉軍が激突をしたもの。
織田信長、上杉謙信が、直接、戦闘をしたのは、これが、唯一。
しかし、具体的な戦闘があったことを記したものは、上杉謙信の書状が一枚、あるだけのようで、「手取川の戦いは、無かったのではないか」と考える研究者も多いようです。
簡単に、この「手取川の戦い」の経緯を見てみます。
元々、上杉謙信と織田信長の関係は良好で、信長が、かなり、へりくだった態度を取っていたのは有名な話。
しかし、互いにとって強敵だった武田信玄が亡くなり、その後を継いだ武田勝頼への対応や、将軍、足利義昭の動向などが絡み、両者は、激しく、敵対をすることになります。
互いに、織田信長を敵とする本願寺と和睦をし、長年、苦しめられた一向一揆を味方につけたこともあり、上杉謙信は、北陸に侵出を始めます。
越中国、加賀国、能登国と、瞬く間に支配下に置いた上杉謙信の行動は、織田信長には、脅威に映ったことでしょう。
この時、上杉謙信に抵抗を続けていたのが、能登国の長続連の七尾城です。
七尾城は、難攻不落の名城ですが、上杉謙信の攻撃を受け、窮地に陥ります。
そして、続連は、織田信長に救援を頼みます。
しかし、この頃、織田信長は、畿内で、本願寺との戦いや、松永久秀の謀反などへの対処に多忙を極め、北陸方面を担当していた柴田勝家を大将とした援軍を派遣することに。
この時、柴田勝家の下には、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家、佐々成政といった織田家重臣たちが加わり、大軍となった織田軍は、越前国から北上を開始。
しかし、七尾城では、内部分裂が起こり、長続連とその一族は殺害され、七尾城は、落城。上杉謙信の手に落ちることになります。
しかし、七尾城の落城を知らない柴田勝家軍は、手取川を越え、更に、北上。
ここで、柴田勝家と羽柴秀吉が対立し、秀吉は、勝手に、軍を引き上げてしまいます。
この柴田勝家軍の北上を知った上杉謙信は、七尾城を出て、南下を開始。
ようやく、七尾城の落城を知った柴田勝家は、急遽、軍を、手取川を越えて、撤退させようとしますが、そこに、上杉謙信の先鋒が、襲い掛かります。
これが「手取川の戦い」で、柴田勝家率いる織田軍は、上杉謙信の軍に大敗。
這う這うの体で、撤退をして行ったようで、上杉謙信は、手紙に「織田軍は、案外、弱かった」と書いているようです。
さて、この「手取川の戦い」が無かったと言われる根拠の一つが、「信長公記」に、具体的な戦闘の記述がないから、と、言うことのよう。
この「信長公記」は、史料としての価値が高く、内容は、かなりの部分、信用が出来るようですが、その「信長公記」に「手取川の戦い」に関する合戦の記述がないよう。
それは、なぜ、なのか。
どうも、この「信長公記」の中の「手取川の戦い」に関する部分の記述は、かなり不自然だそうですね。
乃至さんによれば、どうも、地理的に、整合性の取れない部分があるということ。
そのまま、素直に取れば、軍の行動が、かなり、不自然なものになるようです。
また、「信長公記」には、「羽柴秀吉が、勝手に、軍を引き返した」という記述はあるものの、「それが何時なのか」、そして、「理由が、何なのか」ということは、書かれていないそうです。
一般的には、「秀吉と勝家の意見対立」ということになっていますが、どうも、この話が最初に出るのは、随分と後になってからのようですね。
確か、初見は、大正時代に出版をされた本だと書かれていたような。
これは、後の経緯から、当時から「羽柴秀吉と柴田勝家は、仲が悪かった」と言う考えから創作をしたものだろうという話。
また、同時代に書かれたものには、「羽柴秀吉が、手取川の戦いで、殿として奮戦し、大きな被害を出した」と書かれたものがあるそうです。
この記述から、羽柴秀吉は、合戦の前に、軍を引き上げたのではなく、手取川の戦いでは、羽柴秀吉は、殿軍として上杉軍を相手に奮戦し、大きな被害を出し、他の織田軍の武将たちの不甲斐なさに腹を立て、その後、独断で、軍を引き上げたのではないかと乃至さんは、書かれています。
乃至さんは、「信長公記」では、この「手取川の戦い」の部分が不自然で、具体的な合戦の記述が無いのは、著者が、不都合な部分を、本文から削除をしたためではないかと推測をしていました。
その「不都合」に関しても、本の中に書かれていましたが、それは、「手取川の戦い」とは、別の話なので、省きます。
また、乃至さんは、織田信長自身も、この現場に駆け付け、一時、上杉謙信と対峙をしたのではないかと推測をしています。
この時期、織田信長が、どこに居たのか「信長公記」の中には、具体的な記述がないということのよう。
しかし、これは、少し、想像が飛躍をし過ぎなのではないかと個人的に感じるところ。
織田信長、上杉謙信が対峙をしたなら、どこかに、記録が残るのが自然でしょう。
果たして、「手取川の戦い」は、あったのか、それとも、無かったのか。
あったのだとすれば、どのような合戦が行われたのか。
個人的には、やはり、上杉謙信が書状に書き残している以上、「手取川の戦い」は、実際に行われ、しかも、織田軍が、上杉軍に大敗をしたのは事実だろうと思っています。
しかし、その直後、上杉謙信は、急死することになるんですよね。
織田信長、上杉謙信が、直接、合戦をしていたらどうなったのか。
興味のあるところですが。