仏教の一派に、「禅宗」があります。
個人的には、この「禅宗」という宗派は、「宗教」とは思えない。
なぜなら、禅宗は、神仏を拝むことを目的とする訳ではない。
また、神秘的な現象を求める訳でもない。
個人的な解釈を言えば、「禅」とは、「自分自身を見つめること」、そして、「何事にも惑わされることなく、本当の『真実』を見るための感覚を養うこと」だろうと思います。
そこに、「神」や「仏」や「超常的な力や現象」の入り込む余地はない。
そのために、必要とする修行は「座禅」です。
禅の修行は、ひたすら、「座る」ということ。
もっとも、禅にとって、修行は、それだけではなく、日常の「あらゆること」が、禅にとっては、修行となる。
日々の、何気ないことを、当たり前に行うこと。
それが、座禅と共に、禅の重要な修行となる。
日本で、「禅宗」と言えば、道元の「曹洞宗」と、そして、栄西の「臨済宗」が有名でしょう。
どちらも、中国で学び、日本にもたらされたもの。
道元の曹洞宗の場合は、「只管打坐」と言い、ひたすら座禅を続けて、悟りを目指すというもの。
これを「黙照禅」と言います。
そして、臨済宗の場合は、座禅と共に「公案」というものを重視する。
これを、「看話禅」と言います。
この「公案」というもの。
恐らく、一般の人が、それを見ても、何が何だか、分からない。
意味のよく分からないやり取りのことを、「禅問答のようだ」と表現をすることがありますよね。「公案」というのは、それに近い。
中国で、禅宗が、最も、繁栄をしたのは、唐の末期から五代にかけてということ。
その時代に活躍をした、禅宗の名僧たち。
彼らの言行録が、数多く、作られたそうですね。
そして、彼らの言行録の一部が、「公案」として、後の禅の修行僧たちの「悟り」への道しるべとして、使われることになる。
そして、この「公案」を集めた本として有名なのが「無門関」です。
この「無門関」が生まれたのは、宋の時代。
編纂をしたのは、無門慧開という禅僧です。
この「無門関」は、鎌倉時代初期、中国に渡った覚心という僧によって日本にもたらされます。
覚心は、実際に、無門慧開の元を訪ね、この「無門関」を渡されたそう。
そして、この「無門関」は、中国以上に、日本で、広く、受け入れられたそうです。
禅に関心を持つ初心者向けの本には、いくつかの「禅」というものを象徴する名僧たちの逸話が掲載されているのが常ですが、その逸話の多くが「無門関」にも載っている。
恐らくは、これらは「無門関」から取られたのでしょう。
さて、この「無門関」の最初に登場する、いわば「禅」というものの世界を象徴する公案を紹介します。
ある僧が、趙州和尚に言いました。
「犬にも、仏性が、ありますか」
趙州和尚は、言いました。
「無い」
と。
さて、この「公案」を、どう解釈しますか、と、言うこと。
この「公案」に、どういう答えを出すかで、自分自身を試されることになる。
さて、少し、余談。
栄西によって始まる、日本の臨済宗ですが、実は、この臨済宗に絶大な影響を与え、臨済宗の「中興の祖」と言われるのが、江戸時代の僧、「白隠」です。
この白隠は、自ら、公案を作ることもしたそうで、その中でも、最も、有名な公案を、一つ。
「隻手の音声を聞け」
意味は、「両手の鳴る音は、聞こえる。では、片手の鳴る音は、どう聞こえるのか」と言うこと。
この白隠の公案は、アメリカの作家、サリンジャーの小説集「ナインストーリーズ」の冒頭にも書かれていたはず。
「片手の鳴る音って、何だ?」
この公案は、どのような答えになるのでしょうね。