画家の「山下清」さん。

昔、「裸の大将」というドラマが放送され、個人的に、好きなドラマでした。

主役の「山下清」を演じたのは、芦屋雁之助さん。

ランニングに短パンで、リュックを背負い、どもりながら、訥々と喋る姿が印象的。

 

さて、この山下清さんは、幼い頃の病気の後遺症で、軽い知的障害があったよう。

山下清さんが生まれたのは、大正11年ということで、清さんが子供の頃と言えば、昭和の初期。

この頃にはまだ、当然、社会に「障害」への思いやりや、認知というものは、全くと言って良いほど、無かったのではないでしょうか。

そのため、清さんは、周囲から馬鹿にされ、いじめに遭っていたそうですね。

そして、清さんは、大きな劣等感を持ち、自衛のためにナイフを持ち歩き、時には、障害事件を起すこともあったとか。

 

そして、清さんは、養護施設の八幡学園に入ることになる。

この八幡学園で、清さんは、「ちぎり紙細工」というものに出会い、才能を開花させることになる。

15歳の頃には、すでに、この「ちぎり絵」で、清さんの絵は、大きな注目を集めたそうですね。

しかし、18歳の時に、突然、八幡学園から姿を消し、放浪生活が始まることになる。

 

当初は、いくつかの仕事を転々としながら、千葉県の各地を放浪していたようですね。

しかし、どの仕事も、首になったり、自ら、出奔をしたりして、長続きはしなかったよう。

そして、21歳の時に、ふらりと、母親のところに帰って来る。

徴兵試験を受けたものの、知的障害のために免除。

また、八幡学園で、「ちぎり絵」の制作に励むことに。

しかし、間もなく、またまた、清さんは、八幡学園から姿を消す。

以降、5年間、時折、母親のところに姿を見せるものの、放浪の生活を続けたそうです。

 

25歳の時、母親のところに戻った清さんは、かなり、精神的に不安定な状態だったそうで、母親は、清さんを病院に預けたそう。

しかし、清さんは病院を脱走し、また、放浪生活に。

時折、母親のところに顔を出しながら、埼玉県、栃木県、千葉県を回ったよう。

 

26歳の時には、茨木県、埼玉県、福島県を回る。

この時には、持っていたお金を、盗んだものと疑われ、警察に拘束されている。

この時は、母親に連絡を取ってもらい、無実を証明してもらったよう。

そして、母親は、長野県の農家で、清さんを働かさせることになる。

しかし、やはり、仕事は長続きせず、八幡学園に戻った清さんは、「ちぎり絵」の制作に励むことに。

が、27歳の時、またもや、清さんは、学園から脱走し、福島県、長野県、新潟県、栃木県、神奈川県を放浪。静岡県で、全財産を盗まれ、八幡学園に帰って来る。

 

八幡学園で、また、絵の制作に励んでいた清さんは、28歳の時、また、放浪の旅に出る。

栃木県の日光から、富士山に回り、甲府で、ある事件を起し、警察に捕まり、精神異常者として病院に3か月も監禁されますが、隙を見て、脱走。八幡学園に戻って来る。

 

しばらく、八幡学園で絵の制作。

しかし、29歳の時に、またまた、脱走。ここから三年間、放浪を続ける。

仙台から松島、塩釜、山県、米沢、福島、郡山、新潟、群馬、東京から熱海、ここからは汽車で門司。門司からは、また、歩いて鹿児島。屋久島、種子島。

翌年に、門司に戻り、汽車で千葉まで戻り、そのまま、水戸、草津温泉、新潟、佐渡島、また、新潟から八王子。甲府から沼津。また、汽車で門司。また、歩いて鹿児島へ。

さらに翌年、鹿児島から宮島、岡山、神戸、岐阜、新潟、富山、金沢、福井、米原、京都、須磨では、泳げないのに海に入り、溺れたところを人に助けられたそう。

 

この頃、アメリカの雑誌「ライフ」が、清さんの絵に注目し、行方を探し始めたそう。

これを知った式場隆三郎さんは、朝日新聞社と協力し、放浪中の清さんを鹿児島で捕まえることになる。

この式場さんは精神科医で、山下清さんを物心両面で支え、山下清という天才画家を世間に広く紹介をした人でもある。

 

そして、清さんは、32歳で、鹿児島で確保され、八幡学園に連れ戻される。

世間で、「天才画家」「日本のゴッホ」として山下清さんが有名になったのは、この頃から。

しかし、またまた、八幡学園を抜け出した清さんは、鹿児島に向かう。

しかし、もはや、清さんは、無名の放浪者ではなく、土地の人から声をかけられることも多かったよう。

 

そして、今度は、有名な「天才画家」として、清さんは、各地に招かれ、旅をすることになる。

 

この「山下清」さんは、日記をつけていたそうで、これは、自ら、望んでつけたものではなく、八幡学園の決まりとして、日記をつけることになっていたよう。

そして、この清さんの日本各地を旅した時の日記をまとめたものが「日本ぶらりぶらり」です。

 

 

しかし、山下清さんの書いたもの、そのままでは、とても、一般の人が普通に読める状態ではなかったようで、式場さんが、この山下清さんの日記を元に、文章を、雰囲気や、清さんの意図を壊さないように、書き直したもののよう。

とても、読みやすく、面白いです。

 

特に、面白いのが、清さんの「素朴な疑問」です。

日記の、至るところに、清さんが、世間に対しての「素朴な疑問」を書き留めている。

普通の大人なら「そんなことは、当たり前」で、特に、疑問にも、不思議にも思わない。

また、みんな「おかしい」と思ってはいても、それは「常識」として、わざわざ、口には出さないような疑問など。

 

やはり、「純粋な心」というのは、大切で、貴重なものなのでしょう。

大人になると、普通は、無くなるもの。

 

それにしても、山下清さんは、よく歩く。

よく、これだけの放浪をしたものだと思います。

日々、食べ物を得ることも、相当に大変だったのだろうと想像しますが、それでも、放浪をしたかったというのは、やはり、習性なのでしょうかね。

 

ちなみに、「山下清」の公式サイトを見ると「贋作に注意」という説明があります。

 

ドラマの影響などで、山下清は、全国を放浪中に、いわゆる「一宿一飯の恩義」で、現地で絵を描いたと思われているようですが、これは、間違いで、基本的には、旅の途中で絵を描くということはなく、絵は、八幡学園に戻ってから描いたものが、ほとんど。

また、山下清は、いわゆる「画壇」に所属していた訳ではなく、その絵の「真贋」を判断をするのも難しいということで、よく、地方で、「贋作」を使って「山下清展」のようなものが開かれることがあるので、注意してくださいということのようです。

 

もっとも、画家として有名になった後は、旅の途中で、人に頼まれて、簡単なスケッチなどを描くこともあったそうなので、全く、山下清の絵が、地方で、知られないうちに存在をしているという可能性も無い訳ではないということ。

 

やはり、有名になると、「贋作」は、必ず、出て来るものでしょう。

 

また、「裸の大将」のドラマが放映されないものでしょうかね。

今の時代、なかなか、難しいことなのかも知れませんが。