徳川の旧幕府軍が「鳥羽伏見の戦い」で、薩摩、長州軍に、あっけなく敗戦をしたのは、かつては「徳川軍は、刀、槍などの古い武器による装備が主で、薩摩、長州軍は、新型の小銃を装備していたために、負けてしまった」と言われていましたが、これが、間違いであることは、近年では、常識となっているのではないですかね。
実は、この時、旧幕府軍には、薩摩軍、長州軍と互角の装備を持つ「歩兵隊」が存在をしていた。
しかも、その数は、薩摩軍、長州軍を上回り、練度もまた、十分だった。
その「幕府歩兵隊」に関して、まとまったのが、この本です。
さて、この本から、「幕府歩兵隊」が、どのように誕生したのか。
簡単に、経緯をたどってみます。
嘉永6年(1853)、ペリーが浦賀に来航をしたことで、幕府は、大きな危機感を募らせ、さっそく、「洋式軍隊」の必要性を感じ、旗本の一部に、洋式銃を持つ「銃隊」の訓練を始めさせたようです。
安政2年(1856)の終わりから、翌年の始めにかけて、日本における「洋式軍隊」の訓練の中心だった韮山代官の江川英敏の元で、徒組、小十人組や、番方の一部に、洋式軍隊の訓練を始めさせます。
安政3年(1857)には、「講武所」を開設し、剣術、槍術を始め、あらゆる武術を旗本たちに学ばせるための施設を作りますが、その中に、砲術や、洋式銃を扱う部門もありました。
しかし、この「講武所」で武力を高めようという幕府の考えは、全く、失敗に終わったようです。
なぜなら、旗本たちに、全く、危機感が無く、やる気が無かったから。
剣術や槍術でも、そうなのですから、銃を持って走り回るなどという訓練は、尚更です。
しかし、欧米列強の圧力が強まっている今、幕府は、このまま、軍事の問題を放置している訳には行かない。
文久2年(1863)6月に、大きな軍制改革が行われます。
これは、幕府の「常備軍」の組織を目指し、「歩兵」「砲兵」「騎兵」を編成することが目的。これは、オランダの軍制をモデルにしていたそうです。
しかし、ここでもまた、旗本たちを、そのまま、洋式軍隊に組織し直すことは無理と判断をした幕府は、12月に、「兵賦令」を出します。
これは、旗本の「知行」に応じて、歩兵に編成をするための「人」を差し出せというもの。
旗本たちは、自分の「知行地」から、「人」を幕府に差し出すことになる訳ですが、これもまた、大きく難航し、なかなか、必要な分だけの人が集まらなかったようです。
ちなみに、年齢は、17歳から45歳まで。5年を期限にして、交代をさせるということ。
彼らは、洋式銃を装備する兵士としての訓練を受けることになります。
これを「歩兵組」と呼ぶことになる。
文久3年(1863)には、西丸下、大手前、小川町、三番町の四か所に「歩兵屯所」が開かれる。
この「歩兵屯所」で、歩兵たちの訓練が行われることになります。
元治元年(1864)6月、関東で「天狗党の乱」が勃発します。これは、水戸藩の内部対立から生まれたもの。
幕府は、この「天狗党の乱」を鎮圧するために、歩兵隊2500を、常陸国に派遣します。
7月9日、この幕府歩兵隊は、天狗党の奇襲攻撃を受け、指揮官が逃げ出してしまうなどの混乱を起こし、それぞれ、戦闘を行いながら、撤退を余儀なくなれます。
7月26日、幕府歩兵隊は、再び、出陣を命じられます。この幕府歩兵隊は、天狗党のゲリラ戦に手を焼きながらも、何とか、水戸から、天狗党を駆逐することに成功します。
同年11月、幕府は、当時、神奈川に駐留していたイギリス軍に、歩兵の伝習の依頼をします。同じ頃、神奈川奉行所もまた、イギリス軍に奉行所所属の下番1300人に歩兵の伝習を依頼していて、イギリスによる歩兵の伝習が始まることに。
この頃、幕府陸軍の役職。
陸軍奉行(陸軍中将)、一名。陸軍奉行並、一名。歩兵奉行(陸軍少将)、三名。
歩兵頭(陸軍大佐、一連隊を指揮)、8名。
歩兵頭並(一大隊を指揮)、16名。
歩兵差図役頭取(陸軍大尉、一中隊を指揮)、80名。
歩兵差図役(陸軍中尉、一小隊を指揮)、96名。
と、言うこと。
慶応元年(1865)5月、「兵賦」の範囲を、幕府直轄地の天領にまで広げ、ここから集めた歩兵を「御料兵」と呼びます。
同年6月、「第二次長州征伐」が始まることに。
将軍、徳川家茂が、大坂城に移動しますが、幕府歩兵7大隊が、将軍と共に、大坂に移動。そして、歩兵2大隊が、最前線の投入されることになります。
6月11日、歩兵2大隊が、周防大島に上陸。この歩兵は西丸下屯所所属と思われるということ。
6月15日、長州藩の奇兵隊らが、周防大島に上陸し、幕府歩兵、松山藩兵と戦闘。
6月17日、松山藩兵が撤退し、島民のゲリラ戦や、奇兵隊らの攻撃を受け、幕府歩兵もまた、周防大島から撤退する。
同日、幕府歩兵2大隊は、芸州口に移動。この芸州口の戦いで、幕府歩兵と長州軍は、一進一退の激戦となる。
7月22日、大村益次郎の長州軍に圧倒されていた石州口に、歩兵1大隊の派遣を決定するが、すでに、この方面では、長州軍の侵出が目覚ましく、手遅れのため、中止となる。
8月21日、将軍、徳川家茂の死を発表し、幕府は、長州と停戦。
この時、大坂に派遣をされた歩兵7大隊は、史料の計算上は、6364人ということ。しかし、前線に出たのは、2大隊だけ。
恐らく、この時の歩兵の実数は、4大隊で、3200人くらいだったのではないかということのよう。
そして、この「第二次長州征伐」の敗戦で、徳川宗家を受け継いだ徳川慶喜は、幕府直参旗本の全てを「銃隊」に編成することを決定する。
慶応2年(1866)5月、横浜でイギリス式伝習を受けていた神奈川奉行所下番の1300人が、陸軍奉行の配下となり、江戸の歩兵隊に編入される。
同年8月、「軍役令」が公布される。
旗本の軍役は、全て、「銃卒」をもって定めるということ。
小姓組、中奥番組、大番組、小十人組、御徒組を全廃し、全て、「銃隊」に編成。
講武所奥詰、床几隊などと称していた将軍親衛隊もまた、「銃隊」に編成。
ここで、幕府直参の全てが、「銃隊」となる。
しかし、これには、大きな問題があった。
それは、一言で言えば「身分」の違う者が、一つの「銃隊」となって、訓練、そして、戦闘が、上手く出来るのか、と、言う問題。
そのため、9月には、軍役を「金納」に一本化するべきだという建議を、陸軍奉行、大目付らが、連名で、幕府に建議することになる。
つまり、幕府直参の武士からは「お金」を集めるだけにして、その「お金」で、兵士を雇うということ。
幕府歩兵を「傭兵」にするということです。
慶応2年(1866)2月、講武所は「陸軍所」となり、陸軍奉行の管轄となる。
慶応3年(1867)1月、シャノアン以下、15人のフランス人士官が来日し、横浜の太田陣屋で、歩兵のフランス式伝習が始まる。
この「フランス式伝習」は、幕府内で親フランス派だった小栗忠順や栗本鋤雲らが主導したもの。
江戸での「馬丁」「火消し」「博徒」「やくざ」などの、いわば、「荒くれ者」たちが多く、応募の中から選抜され、フランス式の伝習を受けて「伝習隊」として組織されることになる。
同年2月、最初に採用した歩兵が、5年の任期を満了。希望者は、選抜の上、二つの屯所にまとめられ、歩兵の上等とする。
この頃、一度、歩兵の全てが解雇されたということ。その数、約5000人で、再雇用をされたのは、700人だったそうです。
同年4月、横浜でフランス式伝習を受けていた歩兵を、江戸に移転。約2大隊を大手前屯所に移す。一大隊、約800人で、その後、4大隊まで増えたということ。
同年9月、「兵賦差出」を廃し、全てを「金納」にする。
同年9月、歩兵頭並、小笠原石見守の歩兵1大隊が、上京を命じられる。これは、第一伝習隊と見られるということ。
慶応4年1月2日、大坂城の旧幕府軍が、京都に向けて進軍を開始。
3日、淀に本営を置き、旧幕府軍は、鳥羽街道、伏見街道の二つに分かれる。
鳥羽街道方面、竹中丹後守(陸軍奉行)。
秋山下総守(歩兵頭)、歩兵1大隊(第5連隊)。
小笠原石見守(歩兵頭並)、歩兵1大隊(伝習第一大隊)。
伏見街道方面、城和泉守(歩兵奉行並)。
窪田備前守(歩兵頭)、歩兵1大隊(第12連隊)。
大沢顕一郎(歩兵頭並)、歩兵1大隊(第7連隊)。
二条御城(鳥羽方面)、大久保主膳正(陸軍奉行並)。
徳山出羽守(歩兵奉行並)、歩兵2大隊(第1連隊)。
東山大仏(伏見方面)、高力主計頭(陸軍奉行並)。
横田伊豆守(歩兵頭)、歩兵2大隊(第4連隊)。
黒谷(伏見方面)、佐久間近江守(歩兵奉行並)。
河野佐渡守(歩兵頭)、歩兵2大隊(第11連隊)。
これだけの「幕府歩兵隊」が、鳥羽、伏見を進軍していました。
ちなみに、当時の幕府歩兵の編成です。
歩兵第1連隊、1000人。
歩兵第4連隊、1000人。
歩兵第5連隊、800人。
歩兵第6連隊、600人。
歩兵第7連隊、800人。
歩兵第8連隊、800人。
歩兵第11連隊、900人。
伝習第1大隊、800人。
伝習第2大隊、600人。
御料兵、400人。
歩兵第12連隊(大坂で募集)。
以上が、当時の「幕府歩兵隊」です。
その中で、以下、江戸に残っていた歩兵。
三番町、歩兵500(大坂に向かう途中)。
三番町、歩兵350人(第8連隊)。
小川町、伝習第二大隊、700人。
第6連隊、600人。
ちなみに、これを鳥羽、伏見で迎え撃ったのは、薩摩軍、約3000と、長州軍、約1000。
幕府の歩兵たちと、薩摩軍、長州軍の兵士たちは、共に、前装式の「ミニエー銃」を装備していた。
つまり、武装としては、互角。
ちなみに、伝習隊は、最新式の後装式のフランス製「シャスポー銃」を装備していたものと思われる。この点、薩摩、長州の兵士よりも有利な立場にあった。
武装としては互角、そして、兵力的には、有利な立場にあった旧幕府軍が、なぜ、「鳥羽、伏見の戦い」で敗れたのか。
以下、経緯を見て行きます。
慶応4年1月3日、鳥羽街道、伏見街道を、京都に向かう旧幕府軍は、街道を封鎖する薩摩軍に、行く手を阻まれます。
「通せ」「通さぬ」の押し問答が、延々と続いた後、夕方5時頃、突然、鳥羽方面に布陣をしていた薩摩軍が、発砲。
戦闘準備の無かった旧幕府軍は、突然、薩摩軍の激しい砲撃を受け、総崩れとなります。
しかし、この時、戦場に踏みとどまり、旧幕府軍の総崩れを防いだのが、佐々木只三郎が率いる京都見廻組です。
腕に覚えのある武士たちで構成された見廻組は、甚大な被害を出しながらも、薩摩軍を食い止め、更に、桑名藩の兵士も反撃を開始。
歩兵第1連隊もまた、態勢を立て直して反撃に出ますが、有利な土地に布陣をし、旧幕府軍を待ち構える薩摩軍に誘い込まれる格好となり、大きな被害を出します。
鳥羽方面で、大砲の音が響きはじめると、伏見でも、薩摩軍が戦闘を開始します。
伏見では、旧幕府軍は、伏見奉行所を中心にしていて、そこから、旧幕府軍の遊撃隊や、新選組、会津藩の兵士たちが出撃し、伏見の町で、激しい市街戦となります。
歩兵隊も、彼らを援護しますが、薩摩軍、長州軍を相手に苦戦。
1月4日、午前零時頃、伏見市街地が炎上をする中、薩摩軍、長州軍が、伏見奉行所に突入。旧幕府軍は、総指揮を取らなければならないはずの陸軍奉行、竹中丹後守が、いち早く、逃走してしまったことで、まとまりが無くなり、各自、撤退をすることになります。
同日午前5時頃、鳥羽方面では、歩兵第11連隊が、薩摩軍と交戦中、指揮官の佐久間近江守が狙撃され、重傷を負う(大坂で死去)。第11連隊は、下鳥羽まで撤退をする。
第11連隊と交代をして、第12連隊が正面に出ますが、戦闘中に、またもや、指揮官の窪田備前守が狙撃され、戦死。
幕府歩兵隊は、土工兵が構築をした下鳥羽の俵台場で、薩摩軍を食い止めようとしますが、薩摩軍の大砲の砲撃を受け、撤退。更に後方の酒樽台場で、薩摩軍を迎え撃とうとしますが、ここもまた、大砲の砲撃により、支えきれず、撤退する。
しかし、会津軍が、酒樽台場を占拠した薩摩軍に突撃をかけ、台場を奪い返します。
しかし、1月5日、薩摩軍が、再び、酒樽台場を奪取。鳥羽方面では、じわじわと、旧幕府軍は、押し戻され、伏見方面では、指揮官を失った旧幕府軍には、まとまりがなく、それぞれに撤退を続け、鳥羽方面、伏見方面、共に、旧幕府軍は、淀に向けて撤退をして行きます。
この「鳥羽、伏見の戦い」で、予想外の大勝をした薩摩軍、長州軍の活躍を聞き、京都では、「錦の御旗」を持ち出し、薩摩、長州軍を「官軍」とし、旧幕府軍を「賊軍」とすることが決定します。
「賊軍」となってしまった旧幕府軍は、現役の老中であった稲葉氏の淀藩が、「官軍」に寝返るという衝撃を受けます。
淀城を拠点に、薩摩、長州軍に反撃をしようとした旧幕府軍は、淀城の入城を拒否され、淀からの撤退を余儀なくされる。
1月6日、橋本関門に撤退し、そこで、「官軍」を迎え撃とうとした旧幕府軍は、今度は、味方であったはずの津藩藤堂家の軍から、突然の砲撃を受け、また、衝撃を受けます。
津藩藤堂家もまた、「官軍」に寝返ったということ。
ついに、旧幕府軍は、大坂城まで撤退をすることに。
しかし、旧幕府軍が「賊軍」になってしまったという衝撃は大きく、総司令官であるはずの徳川慶喜自身が、夜半に、こっそりと、大坂城を脱出し、江戸に戻るという最悪の事態に。
大坂城で、「官軍」と戦うはずだった旧幕府軍は、徳川慶喜の逃走を知り、もはや、術なく、それぞれに、戦争を蜂起し、江戸に向かうことになる。
以上、「鳥羽、伏見の戦い」の流れです。
敵と互角の装備を持ち、十分な訓練を受け、兵力では優位にあったはずの旧幕府歩兵隊が、なぜ、薩摩軍、長州軍に、あっけなく敗北をしてしまったのか。
まずは、旧幕府軍を打ち破るために、戦闘準備を万端に整え、待ち構えていた薩摩、長州軍に対して、旧幕府軍には、そもそも、「戦闘準備」というものが無かったということ。
つまり、「戦う」はずでない軍隊が、「戦闘準備」を万全に整えた敵に、いきなり襲われたということ。
どうも、この時、旧幕府軍を率いた首脳たちは、「大軍を持って進めば、敵は、道を譲り、容易に、京都に入ることが出来る」という甘い考えだったのではないでしょうか。
突然、襲われた旧幕府軍。剣を抜いて、即座に反撃の出来る見廻組、新選組、会津藩兵などが奮闘しますが、小銃を構えた薩摩軍、長州軍を突破できる訳ではない。
また、歩兵隊は、何とか、戦闘準備を整えて、反撃を試みますが、やはり、地理的に有利な場所を占める敵を打ち崩すことは出来なかった。
そもそも、敵と戦うための「戦略」が無い旧幕府軍には、「戦術」の用意も無かったものと思われます。
歩兵隊の個々の指揮官と、歩兵一人一人は、奮闘をしたようですが、「旧幕府軍を破る」ための「戦略、戦術」を十分に立てていた相手を、破ることが出来ないのは、当然の話。
そして、旧幕府軍が「賊軍」に認定されてしまったことで、淀藩、津藩という有力な味方であるはずの藩が、次々と、「官軍」に寝返ることになってしまった。
やはり、「天皇」に逆らうということは、日本では難しいこと。
そして、徳川慶喜の逃亡で、「幕府歩兵隊」は、その存在意義を、失ってしまうことになる。
そして、江戸に戻った徳川慶喜は、後事を、勝海舟に託し、謹慎をすることになる。
勝海舟は、官軍、新政府との交渉によって、江戸城の「無血開城」を行う訳ですが、これに不満を抱えた一部の「幕府歩兵」は、江戸を脱走し、それぞれに、新政府軍と戦い続けることになる。
この「旧幕府脱走兵」の話は、また、別の機会に。
ちなみに、よく言われる話としては、旧幕府軍は、薩摩、長州軍に対して、数的に圧倒的に有利にあったので、その大軍を、鳥羽、伏見に集中させず、様々な方向から、京都に進めれば、薩摩軍、長州軍に、それを防ぐことは難しかっただろうということ。
このような簡単な戦略も、旧幕府軍には無かったということで、つまり、単純に、旧幕府軍には、戦う意思が無かったということになるのではないでしょうかね。